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<皮肉な護憲>の傍観者-飛田新地で考えたこと。

 9月(2022年)に大阪に行って、西成区でホルモン焼きを食べた(十郎の日本全国ソウルフードNo.68で紹介)後に、あべのハルカスに向かおうと歩いていると、ひょんなことに飛田新地に迷いこんでしまい、何とも言えず感慨深い気持ちになったのである。東京には「吉原」と呼ばれる、江戸時代から続く「遊郭」の跡地を利用した「ソープランド街」があるが、飛田新地はまたそれとは違った<異形空間(いぎょうくうかん)>を作り出しているのである。
 飛田新地がどんな場所であるかは、大の大人なら関西人でなくともご存じだろうが、その実態の詳細なるものは関西外の人には余り知られてないように思う。ただ風俗の盛んなところ、東京の吉原のソープ街のような場所という認識ぐらいしかないのではないだろうか。実際私も名前は知ってはいたが、その土地に対して詳しくは知らず、今まで知ろうとも思わなかったのである。故にここが、巨大なチョンの間※1、戦前の赤線から連続している出会いの場(買春)として機能し、それがマーケットのような場になり、堂々と営業されているのに驚かざるをえなかったのである。
 昭和33(1958)年売春防止法施行以来、日本での買春は禁止され、犯罪行為ということになったのだが、古代から存在していたという性欲のはけ口の場は、そうおいそれと無くなるわけはなく、法律によっては規制されたが、お上も下々も、そこは大人同士、お互い空気を読みながら(何しろ性産業から上がる税金は凄い)、見て見ぬふりの状態の中、性産業者は様々なアイデアを駆使して、大衆の性処理サービスを持続していったのである。江戸時代からの幕府公認買春施設「吉原遊郭」は「トルコ風呂」という名前に代わり、個人首だし蒸し風呂(もうないのだろうな)で汗を出し、女の子にマッサージをしてもらい、後は「自由恋愛」という本番行為※2に及ぶ。その後、「トルコ」というネーミング対して、トルコ政府からクレームが付き、「ソープランド」に名称変更、この「ソープランド」は地方に広がり、一大性産業に発展し、各地にソープランド街(川崎<堀之内、南町>、横浜<福富町>、滋賀<雄琴>、岐阜<金津園>他)ができ、現在に至る。しかし、この「ソープランド」という名称誰が命名したのか、戦後のネーミング大賞なのではないかと、私は思うが如何だろうか。「E電」(今や消えてしまった)とか「高輪ゲートウェイ」などというトボケタネーミングばかり付ける国鉄(失礼JR)よ、少しは見習ったらどうなのか。
 もとい、それでは「ソープランド」では実際、中で何が行われているのか、そんなことは、言わずもがな、公然の秘密ならぬ公然の観音開き、で誰でもご存じのはず、買春である。それでは買春が行われているこの施設、なぜ摘発されないのか? 業者は言う、「買春」なんかじゃないと、女の子に部屋を提供し、「自由恋愛」の機会を作ってあげているのだと、だから私たちは女の子に部屋代を貰っているだけで、道具もすべて女の子持ちなのだと、「買春」施設となどと言われる筋合いじゃないと、そして女の子も「自由恋愛よ」、と嘯けばよいのである。素晴らしい理屈で完璧なのである。まあ、これがかつては赤線と呼ばれ、現在では「自由恋愛」?空間に変貌した姿なのである。「遊郭」に売られ、嫌々、男に身体を提供し、数々の悲惨な物語の種になった女郎たち、資本主義社会の弱者・女は、男性社会の中で、商品のように扱われ、貧困の中で、いやいや男に体を提供し、もてあそばれていたのである。その女たちの解放に尽力した市川房枝先生※3も、この「自由恋愛」よと、己の意志での買春といった現在の女郎たち(そんなに味わい深いものではない)の姿を知ったら、ぶったまげるのではないだろうか。己の意志とビジネスで女は自分の性を平気で売るのである。そして相も変わらず、性欲処理に困った男たちは、女の身体をなけなしの金で買うのである。私はどちらの行為も善行とは言わないが、売り手と買い手がいるという市場が成立してしまう以上致し方ないものだと思う。
 「ソープランド」という赤線からの変貌の姿を話させていただいたが、それでは青線とは何か? それは、赤線と違い、徹底的に非合法な買春行為をする場のことで、それ故、その営業範囲は限られて、小さく、こじんまりと行われる。たとえば小さな飲み屋の女給が、客との金銭的交渉をし、成立すれば、その飲み屋の2階(なぜか2階には常時布団が敷いてある)にしけこみ行為に及ぶ。これは江戸時代に宿場町の飲み屋の女給が、旅人の長旅の癒しのために一夜、体の提供する飯盛り女※4の名残りなのではないかと思う。かつて青線は至る所の繁華街にあって、新宿のゴールデン街や向島の鳩の街などには今もその形跡がある。またの名をチョンの間と言うが、このネーミングセンスも妙味があっていい。
 そんな徹底的に非合法で、それぞれが隠れて密かに行われた買春行為の場、青線が、この飛田地区では、誰はばかることなく、というか堂々とソープランド街のような区画で公認されたかのように営業しているのである。前述したように「ソープランド」のような完璧な言い訳?が、この飛田の遊楽街にはあるのだろうか? 小さな酒場(何と150軒ぐらい連なっている)に女が数人いて、客に付く、とりあえずは申し訳程度の酒と摘まみ(乾きもの)が出る。すぐに交渉、成立すると、2階?の部屋で…(入店してないのでイメージである。悪しからず)。これも「自由恋愛」と嘯けば嘯けるが、どうも「ソープランド」のようなご愛敬さはないような気がする。あからさますぎるのである。「ソープランド」の場合はお風呂とマッサージベットでウヤムヤになりそうだが、まんま布団だけがあったらマズイだろうと、どうでもいい老婆心が働いてしまうのである。近くには『飛田新地料理組合』(公認売春施設組合?)の看板ついた堂々とした建物もある。このような空間は日本国中どこを探してもないのではないだろうか。
 飛田新地は飛田遊郭の通称で、飛田遊郭は大正時代に築かれた日本最大級の遊郭と言われていたらしい。もと遊郭であったのは吉原と同じだが、前述した通り吉原は昭和33(1958)年売春防止法以降「トルコ風呂」から「ソープランド」に代わり、街もソープランド街に変貌する。飛田は「ソープランド」とは異なり、本番行為のみを提供する料亭(居酒屋)になり、現在も売春防止法以前の雰囲気を残し、大部分の「料亭」は、看板は料亭であるが、営業内容は1958年以前と何ら変わらずチョンの間状態だ。この飛田、もとは遊郭(赤線)で、今は青線らしき即本番のシステムで、表向き料亭だが、料亭内での客と仲居との「自由恋愛」という建前により黙認されているということ。その「自由恋愛」という伝家の宝刀は「ソープランド」と変わらないが、「ソープランド」には法の規制から何とか逃れようと、様々なアイデアを出して変貌していったように思えるが、この飛田には何もそれらしきものが感じられないのである。当局もよく黙認したものだと、さすがに呆れるが、これぞ回りくどいのが嫌いな、本音直球の原色府大阪らしい一面をみるようでもある。以上のことを考えると、日本の売春防止法とは何なのか、建前だけの法で、実際はウヤムヤとしか言いようがないのである。曖昧暈し好きの日本、日本人の面目躍如なのである。
 さて、欲望産業として、性産業の他に妙なのがギャンブルである。我が国では、公営ギャンブル以外のギャンブルは犯罪である。故に、ひそかに博打が行われ、それが見つかれば、警察のガサが入り、捕まることが多々ある。最近余りないが(麻雀をやる人が少なくなったからか)身内内の麻雀も、見せしめかもしれないが、芸能人がよく捕まり話題になった(馬券を買わない競馬のように、賭けない麻雀など誰がするのか)。可笑しいのはパチンコである。これはゲームでありギャンブルではないと、公には言われるが、明らかにギャンブルである。いや景品との交換だけで、店は換金などしてない、とこちらも嘯く。そしてわけのわからない物品に交換され、ひとクッションおいて(これが肝心なのだろう)、これもあきらかに存在しているのに、存在していないような様子の交換所へ行き、現金と替えられる。何でこんなことをするのか。ソープランドの言い訳とどこか似ているのである。店では景品交換しているだけで、現金などに交換していない、故にゲームである。完璧である。素晴らしいのである。これだけで法律から逃れられるのである。いっそのこと公認してしまえばいいのに、そこに日本の利権構造の闇があるのだろう。利権のためなら法律の裏を生み出し、日本国民が<阿吽>で、それを実行していくという。ここまで書いていて、私は何も道学先生のように、厳格に、それらを取り締まれなどと言いたいわけではないのである。逆に法律の規制など何のその、戦後闇市のパワーがどん底日本を復興させたように、庶民の生(性)のパワーや活力感じ、その努力に頭が下がる思いである。
 実は非常に長い前置きになってしまったが、これからが本題である。以上のことを飛田で考えている時に、ふと、この曖昧さと似ているものがあるのに気づいたのである。そう日本国の理念のベースである「日本国憲法」である。この「憲法」何とも厄介で、現在、「護憲派」と「改憲派」に真っ二つに分けれ、このままずるずるべったりのまま時が過ぎていくような気配である。ご存じのように、この問題は憲法「九条」をいかにするかという問題で、他の条項はどうでもよいのである、と言ってしまえば語弊があるが…(護憲派の筆頭の共産党、本音は1条を変えたい改憲派なのでは邪推したくなるが)。
 そこで問題は、第九条の項目なのだが「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。②前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」。この条項をわかりやすく言いたいことだけをまとめると、「戦争の放棄」(戦争放棄)、「戦力の不保持」(戦力不保持)、「交戦権の否認」の3つの規範的要素から構成されているのである。戦争を放棄し、戦力を持ってないのであれば、交戦権もへったくれもないのではと思ったのだが、そうか武力も持たずに戦うという手もあるな、これもおかしくないなと納得したである。そんなことよりは、一番の問題は「戦力の保持」である。戦力とは軍隊のことで、戦争兵器は持たないという事なのだが、日本にそれが存在しない? あきらかに存在しているのである。しかし、存在していないのである。軍隊は戦力で自衛隊は戦力ではないという理屈だが、素晴らしい理屈である。いや素晴らしくもなんともないのである。「自衛隊」が戦力でなく、「軍隊」に替えると戦力になるという主張は、何だか「自己恋愛」が「買春」に代わると犯罪になるという理屈とアナロジカルで何とも興味深いのだが、性産業の理屈には許されるような愛敬があるが、この理屈はいただけないのである。何故か「自己恋愛」と「買春」には辛うじて、恋愛に転ずる可能性があるということである。しかし、「自衛隊」と「軍隊」にはその可能性はないのである。そもそも「軍隊」は「自衛」のためにあるのである。「自衛」のためでない軍隊などこの世には存在しないのである。故にそもそも「自衛」なのだから、どんなことをしても「軍隊」が「自衛隊」に変容する可能性ないのである。どこまで言っても同じものでしかないのである。「買春」と「自由恋愛」の言葉には万が一があるが、「自衛隊」にはピュアに自衛隊として存在できることなどないのである。「武力」のない自衛隊が存在するとするなら別だが、そんなことは考えられないだろう(いや戦闘機や戦車や艦船を武力ではないと言っているのが日本なのだが、ぶったまげるのである)。
 この九条を擁護している輩は自国を守るためならば軍隊も軍隊でなくなるなと思っているらしいが、たまげたものである。もう一つ九条に揚げ足をとらせていただくと、交戦権を認めないないで、何が集団的自衛権なのか、どのように防衛するのか、戦わず、抵抗しない防衛とはどういうものなのか、見本を見せてもらいたいものである。侵略だろうが自衛だろうが、戦ってしまえば戦争であり、とりあえずは勝ったほうが正義(嫌なものである。正義は調和であって欲しい-ソクラテス)なのであるから(はじめに暴力ざたを起こしたロシアを持ち上げる識者や国もあるのである<ウクライナVSロシア>。当然、何もしてないのに攻められた日本が、国際関係上、お前の国が悪いとなどという国連加盟国も当然出てくるだろう)、そこはリアルに対処するべき方法を考えなければならなのではないだろうか。
 このような曖昧模糊とした九条を変えようとしているのが「改憲派」、戦争放棄という理想を掲げた平和憲法(九条)を変えようとする輩は、日本をまた戦争に駆り出す悪しき奴らだというのが「護憲派」、ということになっている。ここまで来て読者は、私が大変な「改憲派」だと思っていらしゃるだろうが、実は「護憲派」に変わりつつあるのである。戦争はどんな理屈をつけようがダメなのである。しかし、相手から暴力を振るわれたら、その対処する方法は考えなけれいけないのである。理想は戦争は反対だが、リアルに現実的には戦争は行われるのである。政治はそのリアルな現実に対処する方法を考え出さなければならないのである。しかし、最近、この政治三流国日本は自力で何かを変えることは無理なのだということが身にしみて分かってきたからである(自国の文化さへも外国からの評価で決まるというトホホな国なのだから)。日本国が成立(701年)以来1320年、外国の圧力を受けて初めて自国を変えていくという連続であり、きっと憲法も外国の圧力がかかり、国としての<思考停止>になった時、はじめて改められるのだろうと思うのである。その前に国がなくなっているかもしれないが…。
 それならば、「護憲」のままで、性産業や遊興業の<まやかしパワー>を見習って、このまやかし憲法と付き合い、この国がどう諸外国の横暴と対処していくのか見届けたいと思うようになったのである。そして「護憲」になった以上、いくら自国の民が殺されても自分に災いがなければ、平然と「平和、平和」と叫び続けていきたいものである。こんな<皮肉な護憲>の傍観者が、日本の未来を支えていくのである。そんなわけねーだろう。しかし、日本、日本人はいったいどこぞに向おうとしているのか、私もだが…。

※1 チョンの間-チョンの間は、戦後の混乱期を契機に、全国の主だった歓楽街に出没し始めた風俗店で、売春防止法施行前でいう青線(許可されていない売買春街)に属するものである。外観は呑み屋や小料理屋、旅館を装っていて、営業の届出もそのようになされている。新聞やニュースで「特殊飲食店」「小規模店舗」などと呼ばれているのはことが多い。
※2 本番行為-実際に性行為を行う事。実際の性行為とは性交のことで、ペニスを膣に挿入すること。
※3 市川房枝先生-(いちかわ ふさえ)、明治26(1893)年5月15日 – 昭和56〈1981〉年2月11日)、日本の婦人運動家、政治家(元参議院議員)。
※4 飯盛り女-江戸時代,街道の宿場で旅行者の給仕,雑用などにあたるとともに売春を行なっていた女。もともと遊女であったが,幕府は江戸時代中頃から遊女取締りをきびしくしたため,飯盛と名を変えたものが多かった。

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幸福と退屈ー極私的幸福論

 最近、小学校時代からの友人と話す機会があり、会話をしていて考えさせられることがあった。彼は公務員であったが、ある事情で、定年3か月前で職を辞したが、さすが公務員、その後も民間企業に天下り的に入ったが、半年も続かず、次に入社した会社も3か月もたず辞めてしまい、現在無職である。話を聞くと、両社とも、私から見ると非常に条件がよいのである。私などにはなぜなのという思いがあったが、たくさんの退職金を貰い、自分のマンションを持ち、65歳になれば夫婦で月50万の恩給がでるという彼には、金銭的に困窮するわけでもないから、見きりをつけるのも早いのだろうと結論づけた。
私からすれば、これから、お金のことを考えずに、あふれるような自分の時間を持てるのだから、何てまー人が羨む幸福度の高さよ、と思うのだが、彼にはそうは問屋が卸さないらしいのである。まずは、よくあるケースだが、自宅に居る時間が多くなり、それと同時に奥さんとギクシャクしだし、最近はそれを避けるために図書館に行くようになったという(何と凡庸で典型的なパターンなのだろうか)。そんなことはどうにかなるのだが、まだ働きたいというのであった。働きたいといっても、人が羨むような条件の会社を二つも辞めたのだから、もう、この年齢では、単純軽肉体労働しか雇ってもらえるところはないよ、と言っても、ところが、自分の今までの身分が特殊なのだということに気づかず、その辺の想像力が混沌としていて覚束ないのである。
最近、このところ専門のロシヤ問題で浅薄さが露呈した元外交官で博覧強記などとマスコミにおだてられている佐藤優なる評論家が、高齢になっても元気なら、清掃や警備員、管理人でも、社会に関われる仕事をしたほうが良いなどと、ふざけたことを言っていたが、やはりこの人も公務員あがりの評論家、学者と同様、世間知らずの知識人なのだなと、日本の評論家もだんだん底が浅くなったなとつくづく思ったものである。
私は、50歳近くで経営する会社を畳んで、60歳まで単純軽肉体労働を続けて糊口を凌いできたが、この社会で生きていくことが如何に大変かを身に染みて分かっているつもりである。何か大変なのか? 労働自体そのものは大変ではないのである(一部キツイのはあるが)。ここまで身をやつしまった自分の心の整理と言わば吹き溜まり的空気の中で、自分と同じやつれた他者との関係に我慢し、反復繰り返しという仕事することの精神的苦痛に耐えることが大変なのである。それでは耐えて続けるためにはどうするか、同僚他者とは距離を置き、言われた仕事を黙々とやる、それ以上に絶対に欲<他者より能力がある>を出さないこと(それは辞める元をつくってしまう)。実はこう言った労働で、一番良いのは、お金のためでなく健康のためフィットネスクラブへ行く感覚で働くのが良いのだが、そもそもお金に困ってない人は、こんな単純軽労働はしないのである。社会などと関わるなどと、この評論家、おためごかしな頓珍漢なことを言っているが、その働く者(現場)のほとんどが(上層幹部は別だろうが)社会との関わりやコミュニケーションがイヤで、この単純軽肉体労働を選択しているのに、社会との関わりも何もないだろうに。ましてや友人のような公務員上がりでは続かないだろうと思うのである。
話があらぬ方向にズレてしまったが、考えるに、彼としては、すでに退職して何か月もたたないのに、今後ズーっと続くだろう自由な自分の時間をもてあまし出したのではないだろうかと思うのである。彼に訪れるかもしれない<退屈>という恐怖の予感を避けるために何かしなければという焦りが出てきたように思うのである。哲学者のショーペンハウエルは、幸福とは自由な時間があることだが、幸福の一番の敵は退屈だと言っていたように思う。その著『幸福論』の中で、親の莫大な遺産を相続した子供が、退屈の恐怖を紛らわすために、瞬間的な快楽に浸り、財産の全てを使い果たした話を語っているが、実はこういう人は歴史上にかなりいるのである。その財産を失った後も、彼は<退屈>からは逃れるが、豊富な有り余る自分の時間は失ってしまうのだろう。私は彼とは現在真逆で、借金だらけで、この先死ぬまで働いていかなければならず<退屈>などしてられないが、悲しいかな有り余る自分の時間はないのである。今一番欲しいものは何かと言えば、有り余る<時間>といえるだろう。そんな私が一番欲しいと思っている有り余る時間を獲得した彼が<退屈>という恐怖に怯えつつあり、有り余る時間を獲得できないでいる私には<退屈>さへないのである。それではそのどちらが幸福といえるのだろうか、何とも人にとって幸福とは難しい代物なのである。そして、現在、彼は「特殊な職業にいたのだから今までの自分の人生について何か文章化してみれば」という私の助言に目覚めたのか、毎日図書館通いをしながら、コツコツとパソコンのキーボードを打っているのである。

小原庄助考一幸福について

小原庄助さん、何で身上つぶした
朝寝、朝酒、朝湯が大好きで
それで身上つぶした
あ~もっともだ、もっともだ

 最近、相米慎二監督※0の日本映画ベスト3の中の一つに清水宏監督※1の『小原庄助さん』(『たそがれ酒場』<内田吐夢監督>『女が階段を上る時』<成瀬巳喜男監督>)をあげているのを知って興味を持ったので観たのだが、大変面白かった。
 今時、昭和24(1949)年制作のこのようなタイトルを持った映画を観る人は少ないだろうが、私の場合は、相米監督がベスト3にしていることと、民謡のフレーズだけに残っている謎の人物をどのように描くのかに興味を持ったためだけで、映画そのものには期待はしていなかったのであるが、観終わると逆に良い意味で裏切られた格好だった。この映画傑作なのである。
 まずこの映画、伝説の小原庄助さんを描いたのではなく、小原庄助さんのような生活をし、本人も庄助さんと冗談で名乗りながら、同じように身上をつぶしてしまう農村の名家の何代目かの底なしのお人好し男の生き様を描いている。
 最後は当然のごとく財産を食いつぶし、古くからいる女中の婆や(飯田蝶子)や奥さん(風見章子)もいなくなるという、まさに丸裸になり転落する男を時代劇の名優・大河内傅次郎が飄々と演じているのである。一見、ただの無様(ブザマ)な男のコメディーかなと思わせる。しかし、観て行くうちに良い意味での不思議な懐疑感がジワジワと押し寄せてくるのである。その懐疑とは、あれ「この男計算づくでは」と…。そして、最後の結末のシーンで、穿った見方をすれば、観る者に<生の希望>を抱かせると同時に、<幸福とは何か>という人類の普遍的な課題が頭に過(よぎ)るように仕組まれている深淵な映画なのである。
 監督の清水宏はよほどの邦画好きでないと現在では知る人は少ないだろうが、大正・昭和前半に活躍した映画監督で、戦前の松竹では筆頭監督であり、小津安二郎監督※2とはライバル関係であり終生の友であった。山中貞雄監督※3に「天才」と言わしめた大監督で、何故か小津・溝口健二※4・成瀬巳喜男※5などに比べると現在では知名度は低いが(何しろ性格がワガママで賛否両論がある人だったらしい)、日本映画を語る上では無くてはならぬ監督なのである。
 私はこの映画を観て、小原庄助の道徳的訓戒イメージに沿って話を進めながら、それを「幸福とは」という根源的テーマに移り変えていく手法の見事さもさることながら、それを微塵もあざとく見せることなく自然に描く、監督の手腕にまず感心したのである。
 そして、決して、財産やお金を持っているイコール幸福ではないという当たり前のことを、主人公は、自らの行為で声高に主張することなく、底なしのお人好と自堕落な習慣に徹することで証明していく。観る者には、主人公に近寄ってくる人間は子供以外皆狭小で不幸な輩(やから)に見えてくから不思議である。
 最後に当然のごとく主人公は丸裸になる。しかし、人は嘲り嘲笑するだろうが、実は庄助さんだけには<ほんとう>の希望の光が差し込まれてくるのを誰もが感じるのである。また最後のシーン(日本映画史上の最高のラストシーンもと言われている)で、そんな見捨てられた庄助さんは決して孤独ではなく、この世で一番幸福な人間なのだと了解させられるのである。その後の未来は困難な道のりになるだろうと考えさせるのだが、その再生は<生の喜び>に満ちたものになるのだろうとしか思えない何かをこの映画は感じさせてくれる。
 この映画、ひょっとすると当たり前だと思いこまされている社会規範の中での欲望追求が、逆にいかに希望を失わせているかを垣間見せてくれる。また驚くのは、囃子歌のフレーズが、時とともにこのように解釈され、広がりを見せてくれることに、人間の歴史もまんざらではないなと、生きるうえでのこの上にない幸福感にひたれる映画なのである。
 <今ここでの>私たちの一番の課題は、それぞれが生きる上で<幸福とは何か>を見つめ直すことのような気がする。百人百様の幸福観があるのは当然で、古(いにしえ)より続く永遠のテーマだろうが、もう一度、己の<幸福観>を見直すのに、この『小原庄助さん』は格好の映画であることは確かなように思う。どうぞご鑑賞あれ。

※0 相米慎二監督(そうまい しんじ)
1948年1月13日~2001年9月9日。岩手県盛岡市生まれ。
代表作品『翔んだカップル』(1980年)、『セーラー服と機関銃 』(1981年)、『ショベンン・ライダー』(1983年)、『魚影の群れ』(1983年)、『ラブホテル 』(1985年)、『台風クラブ 』(1985年)、『東京上空いらっしゃいませ』(1990年)、『風花 』(2001年)他

※1 清水宏監督(しみず ひろし)
1903年3月28日~1966年6月23日。静岡県出身。
大正・昭和期の映画監督。作為的な物語、セリフ、演技、演出を極力排除する実写的精神を大事にし、「役者なんかものをいう小道具」という言葉を残している。
代表作品『有りがたうさん』(1936年)、『風の中の子供』(1937年)『按摩と女』(1938年)、『蜂の巣の子供たち』、(1948年)。

※2 小津安二郎(おづ やすじろう)
1903年12月12日~1963年12月12日。東京都出身。
日本映画を代表する監督、約35年にわたるキャリアの中で、原節子主演の『晩春』(1949年)、『麦秋』(1951年)、『東京物語』(1953年)など54本の作品を監督。ロー・ポジションによる撮影や厳密な構図などが特徴的な「小津調」と呼ばれる独特の映像世界で、親子関係や家族の解体をテーマとする作品を撮り続けたことで知られ、黒澤明や溝口健二と並んで国際的に高く評価されている。

※3 山中貞雄監督(やまなか さだお)
1909年11月8日~1938年9月17日。京都府出身。
サイレント映画からトーキーへの移行期にあたる1930年代の日本映画を代表する監督のひとり。28歳の若さで亡くなった天才監督として知られる。わずか5年間の監督キャリアで26本の時代劇映画(共同監督作品を含む)を発表。現存する作品は『丹下左膳余話 百萬両の壺』(1935年)、『河内山宗俊』(1936年)、『人情紙風船』(1937年)の3本。

※4 溝口健二(みぞぐち けんじ)
1898年5月16日~1956年8月24日)。東京都出身。
1920年代から1950年代にわたるキャリアの中で、『祇園の姉妹』(1936年)、『残菊物語』(1939年)、『西鶴一代女』(1952年)、『雨月物語』(1953年)、『山椒大夫』(1954年)など約90本の作品を監督した。

※5 成瀬巳喜男(なるせ みきお)
1905年8月20日~1969年7月2日)。東京都出身。
1920年に松竹蒲田撮影所 蒲田撮影所に入社。小道具係、助監督を経て1930年に『チャンバラ夫婦』で監督デビュー。最初はドタバタ喜劇を手がけていたが、1931年の『腰弁頑張れ』で注目を集める。『君と別れて』、『夜ごとの夢』といった作品で頭角を現すようになる。監督作品『浮雲』、『山の音』『めし』『流れる』『女が階段を上る時』他

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げに恐るべきは中国かな②

 上の日本国の人口推移を見て欲しい。
 701年の大宝律令を日本国が誕生と想定したとして1,320年がたった。誕生からズ~っと日本の人口は右肩上がりで増加していったのだが、はじめて2,015年を境に下降線を辿っている。そして50年後は敗戦時の人口7,000万近くまで落ち込むと予想されている。この図を見ながら、現在の私たち日本人は人口だけみれば、今までの日本にはなかった経験をしようとしているのである。そして今、私たちはそれと現実に向き合っているのである。それを考えた時私はある種の感慨に浸ってしまった。よくぞこんな時に生を受けたものだと。
 しかし、日本の人口が落ち込むと同時に、お隣中国は、「21世紀は中国人の世紀」などと言われ、そしてあながちその言葉に間違いはなく現実味を帯びるほどの巨大な強国なってきたのである。
 新型コロナというウイルスをバラマキ(研究所流失説が濃厚になってきた)ながら、自らの国は徹底的な感染対策で収束させたのに、あなたたちは何をしているのと、反省しなければならない立場の国が逆に自分たちの優秀性を誇示し平然としている。当たり前ながらここでも謝罪の言葉ひとつない。さすが政治の国、謝罪などしたらどんなことになるのかを長い歴史のなかで知り尽くしているのである(どこぞの国と違う)。謝罪などしたら各国の賠償請求の火がつくために(日本の慰安婦問題のように)、あくまでも新型コロナ天災説を貫くだろう。
 トランプではないが、世界中の国々で賠償金請求をしたほうがいいのではと思いたくなる国なのは確かである。しかし、そこは各国冷静である。そんなことをしたならば、第一次大戦の敗戦国ドイツが天文学的賠償金を負ってしまい、どんなことを起こってしまったか、その記憶が甦ってしまうのかもしれない。そして、ホロコーストならぬ中国なら何をしでかすかわからないという危惧と世界経済の混乱を招きかねないという最悪のシナリオへの恐怖が、それを抑えているのかもしれない。しかし、そんな各国の思惑など承知の介がこの共産国家?中国なのである。
 チベット人を大虐殺しようが、モンゴル人を抑圧しようが、ウイグル自治区に強制収容所を作ろうが、中国人は決して悪くないのである。いや善意で行っているらしいのである。だって21世紀は私たちの国が一番よ、と、<中華>思想をちらつかせて、私たちに逆らうと生きていけなくなるのだからと暗黙の脅しが横行する。私と一緒に働くモンゴル人(内モンゴル出身)は、実家には帰りたいのだが、あの国(中国統制下モンゴル)には帰りたくないと、中国という国の怖さをいつも繰り返して聞かせてくれる(それを聞き私は唖然とするばかりである)。そんな国だが、当然だが私たちにはもうその国を制御できる力は持っていない。中国恐しである。
 それに比べ、トホホなのは人口が減少に拍車がかかる我が国日本の菅首相である。首相になって、あなたは何回謝罪したのか、謝罪は非を認めたことになり、どんなことをされても、あなた及び国家がその非に対して償いをしなければならないということで、相手が納得しなければ永遠に償いをしなければならないということをこの方はわからないのだろうか(辞めちゃえば、へったくれもないから謝っているのかな)。
 この日本国、敗戦国になってからどれだけ謝罪したことか、それでもまだ謝罪がたりないと、お隣の韓国と謝罪しない国・中国は謝罪を要求する。その現実を経験しながら、日本人は歴史などに何にも学ばないのだろうか(ハイネ)。その上、いまだにこの「スミマセン」国家の首相は、苦笑いしながらいつもの挨拶のように謝罪を繰り返す(ヤレヤレである)。
 私たち日本国、日本人は、人口推移の落ち込みとともに、未曾有の岐路に立たされているように思われてならない。100年とは言わぬ20年後、30年後の日本国の姿に対して、もうちゃんとした指針を持たなければいけないのに、現在のコロナ渦それどころではないらしい。しかし、それこそ中国に飲み込まれ、チベット、モンゴル、ウイグルのように中国の圧に押され何も身動きができないような日本国の現実が迫りつつあるような気がしてならないのだが、それは穿ち過ぎなのか。それを証拠に、現在、中国人観光客がいなくなり、潰れてしまった、潰れそうな日本企業がどれだけあることか。そしてどれだけ中国人が日本の土地を買いあさっていることか。中国への依存が自分たちの首を絞める結果になることの恐ろしさを認識しなければ、エライ結末を迎えのではと危惧するのは、要らぬ老婆心なのか。
 新型コロナが収束してからは、また、その後始末で混乱するだろうが、それぞれ日本人がもっとこの日本国の現状を憂えなければならないのではないか。しかし、返す返すもこの国の政治はどうなっているのか、今こそ政治家は未来への指針を打ち出すべき時なのに、与党、野党の議員の顔つきを見ると脂ぎったヘタレばかり、まさに我々日本人のヘタレさと合わせ鏡のようで、焦燥感がつのるばかりである。
 命とお金と平和さへ確保できれば、日本国がなくなってしまっても平然としているのが日本人なのかもしれない、「さあ、議論をしよう」と大好きな平和的会議をし、結局決断を棚上げする日本国の上層階級たち、気づいた時は中国人になっていた?そんな落ちもありそうに感じさせるのもこの国の現在なのである。げに恐ろしきは中国ならぬ日本人の精神性なのかもしれない。 

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宿命とは、しょうがないということなのか?

残っていて欲しい「鳩の街通り商店街」

 緊急事態宣言も解除され、桜も満開だというので朝早くから浅草経由で隅田川方面へ歩いてみた。浅草も本日は朝早くからの人出の数から鑑みるに、相当な賑わいが予想されそうである。こりゃ二週間後は、見飽きた急上昇のコロナ感染図を見せられるのかと他人事ように思い吾妻橋方面へ。いつもながらこの橋からの風景は絵になるなどと感慨ぶかげに下流の両土堤側の満開の桜を眺め 、隅川土堤から隅田公園の人混みを徒然なるままに歩く。さて目的は達成したが、この後はどうしようと連れとベンチに腰掛け思案する。スカイツリー方面へ歩こうかと、腰を上げたが、急に思い立ち東向島方面へと行先を変える。私の中では「鳩の街通り商店街」への再訪という目的が固まったからだった。水戸街道を下りながら、この街が数年前に訪れた時とどんな変貌をしているのか確かめたくなったからである。
 「絶滅危惧商店街」という言葉があるのをご存じだろうか。都市の変貌で、以前栄えていた商店街に人通りがなくなり、俗にシャッター通りなどと揶揄され、消滅寸前の商店街を言うのだが、地方などでは駅前に多く(自動車通りの郊外型マーケットに客足を取られてしまう)、都市部では開発が遅れてしまったというか、見捨てられてしまった所に目立つのである。「鳩の街通り商店街」はその典型で、数十年前から、歩いている人は、地域住民以外は、この特殊性(元は青線地帯※1だったところで、永井荷風の小説や吉行淳之介『原色の街』の舞台、私たちの世代以上では木の実ナナが生まれた所で知られているかな。)のため興味本位で観光がてらに一見客として街を歩いている人だけであったように感じる。ただ、数年前に訪れ時には、若い人たちが使われてなかった仕舞屋をお洒落なカフェにしたり、モダンな古本屋を開業したりして、街の再興を測っていて頼もしく感じたものである。私はその古本屋で安価な小説を3冊買い、若い店主といくつか言葉を交わし店を出たが、ここで家賃を払いながらの古本屋はキツイだろうなと、いらぬ老婆心をはたらかせながらも長く続けて欲しいなと、街を後にしたのであった。
 「鳩の街通り商店街」へ入ると、土曜日のお昼時なのに、いや、だからなのか人通りがほとんどなく、200メートルほどの商店街は以前を訪れた時よりも店が少なくなったような、そして住宅に変わってしまった処もある。練り物屋、魚屋、クリーニング屋、小さなスーパー(客はゼロだった)が細々と営業していて、地域住民には助かるだろうが、コロナ禍を考慮にいれても商店街は崖っぷちという感じは否めなかった。よくテレビや雑誌などで取り上げられ有名なカフェは営業していたが、お目当ての古本屋は跡形もなく消えていた、というかどこにあったのかという場所さえ特定できない始末だった。あの古本屋はひょっとすると私の頭の中の願望で、そもそも存在しなかったのではないか、果敢ない夢だったのではと……。商店街は、危惧というより、私の中で<無常観>さえ漂わせていた。ここもいつのまにか商店街はなくなり、<鳩の街>という名前の記号だけが残り、何十年後には訪れてみても、その形跡さへ残すことなくなってしまうのだろうか。そんな感慨にひたりながら、人混みが多いだろうスカイツリー方面へ足を進めた。
 都市の変貌は<宿命>であるという言葉がある。ただ、だれも変貌することを喜んでいない変貌とは何なのだろうか。古い建物が壊され更地になり、すぐに共同住宅(マンション)に変貌する。都市はどこもかしこマンションだらけになる。まともな人間ならこんなにマンションを作って将来大丈夫なのか心配になるはずである。大型都市開発はどでかいビルを作っても中身のテナントは変わり映えしないオフィスと、みなどこにでもある大資本のチェーン店ばかり、そして「こんなところ仕事でくるのだからどうでもいいよ」というサラーリマンの呟き声が聞こえるのである。これで何か目新しいものをつくっていると思っている人はよほどのバカだろうと思うのだが、この原稿を森ビル関係者に読ませたいものである。
 知り合いのゼネコンに勤める友人にズバリ質問すると、「そんなの大丈夫なわけないでしょう。ただ金を回すために作っているんですから」と平然と嘯いて答える。「将来のことより、誰だって現在が大事なんだから、しょうがないんですよ。ただ売れるんですから、需要があるということですよ、人が欲しくないものは供給しないわけですから、これ資本の論理でしょう」と彼はまったく誰も否定しようのない合理的な意見を言って苦笑していた。ということは、都市の街が開発と同時にどんどん面白くなくなるのは、これは需要があってのことであり、人々が望んでそうなっているということに行きつくのでろうか。しかし、数十年後、誰がこんなにマンションを作ってしまったのだと大問題になり、戦犯探しがはじまった時、きっと「わかっていたんだけと、しょうがなかったのです」と誰の責任か不明のままウヤムヤニなること(失礼だが、予想した本人はこの世にいないだろうが)が目に見えるようである。まさに、あの無惨な戦争が終わった時のように……。
 ソクラテスは言う「わかっていて、やらないのは、わかってないのである」と。
 先日何十年ぶりに大学のあった江古田の街へ行った。駅は小奇麗になったが、昔の情緒的風情はなくなり、どこにでもある金太郎飴のような特徴のない駅に変貌していた(きっと西武線沿線はどこでも同じ表情の駅になっているのだろう)。また同時に街も北口の戦後闇市風マーケット(市場)はなくなり、ノッペリとした<氣>や凸凹ひとつない街に変貌し、「江古田スケッチ」(これ良い歌です)に歌われた情趣などどこにあったのだろうかという街になっていた。
 私はただノスタルジー(郷愁)だけで言っているのではなく、人々は、何で詰まらない方に向かっていくのかと、場所だけではない、今更言ってもしょうがないが(また出た)駅名という記号でも、東向島駅でなく玉ノ井駅であり、東京スカイツリーではなく業平橋スカイツリー(この名前だから東京タワーに勝負できるのであるーこの感性を理解してくれる人は少ないが)。高輪ゲ―トウエイでなく芝浜駅だろう。これはただ単に保守的なだけじゃないかとおっしゃる人もいるだろうが、そうではなく私たちのイメージの広がりを言っているのである。新しい駅名のほうがイメージが広がるとおしゃるならそれでいいが、そんなことは絶対ないと思うのである。高輪ゲートウェイなど、この後の駅前開発が進行しても、最初の騒ぎだけで誰も振り向く人もなく名前さえ忘れてしまうのではないか。ところが芝浜駅にしたならば、人を駅に寄せる様々な企画が生まれたことだろうと思うと残念でならないのである。これが歴史連続の新しさというものなのだが、出来る前から古くなってしまう駅と街とは何なのだろうか、これもしょうがない開発というのだろうか。―まさにお台場が30年ぱかりで古臭い匂いを発してきつつあるように……。高輪ゲートウエイは何年でその古さを醸し出すのだろうか。
 私たちは、決してしょうがないという気持ちで前に進んではいけないし、すぐ古くなってしまう安易な新しいものを作らないように注意しなければならないのである(これは非常に難しいが)。そうしなければ、ノッペリとした質感のない幾何学的な人間世界が広がり続けていくだけのような気がする。如何だろうか。
 宿命とは決して、しょうがないことを言うのではないだろう。

※1 青線地帯―昭和33(1958)年「売春防止法」が施行される前は、特殊飲食店として売春行為を許容、黙認する区域を地図に赤い線で囲み、これら特殊飲食店街(特飲街)を俗に「赤線(あかせん)」あるいは「赤線地帯」、「赤線区域」と呼び、それとは別に非合法で売春が行われていた地域を青線地帯、青線区域と呼ばれていた。

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