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囲碁将棋の終焉-法則性という悪魔

 かつて、麻雀漫画の出版社に勤めていたことがあった。この出版社は雀プロなる人種がいつも出入りしている会社で、私もお近づきになったのだが、そのプロの方から聞いた話で、ズーっと記憶に残っているものがある。その雀プロ曰く「麻雀が何故囲碁将棋のように世間的評価が低く権威にならないのか分かる?それはね麻雀が<偶然性>に左右される勝負で、確率性が入り込むから。いわゆる博打性が強い…。だから麻雀プロがそこらのビギナーおねーちゃんに負けちゃうことも偶にはある。そんなんじゃ権威もへったくれもないでしょう。それに比べて囲碁将棋はね、段持ちは、素人の兄ちゃんには絶対負けないの。それは法則性の勝負だからなの。故にそれだけヒエラルキー(階層)が絶対的なるから、自ずとその世界は権威づけられるのよ。あっちは棋士などと呼ばれるけど、こっちはただの博打打ちのヤクザになっちゃう。だから一流の新聞社などのスポンサーなど付かない。せいぜいスポーツ新聞ぐらいが関の山なの」。

 その話が、最近、変に頭に蘇ってくるのである。

 それは、現在、将棋界はわずか21歳の藤井聡太が八冠のタイトル全てを獲得し、最年少記録を塗り替え、活気を取りもどしつつあるが、その現象を外から見ていて思ったことなのだが、それを、そんなに喜んでよいものなのか、逆に何だか、将棋界の未来の危うさの現れではないかなどと、アマノジャクな私は考えてしまうのである。
 最近、よくAIでなくなる仕事などというテーマが話題になるが、素人には仕事ではないが(棋士には仕事だ)、この囲碁将棋ほど人気がなくなってしまうゲームはないのではないかと考えてしまうのである。それはアブストラムゲーム(勝つための研究結果が発達しているもの)であり、定石という決まった手の打ち方があるゲームだからである。つまり法則性が決まっているゲームだからである。
 聞くところによると、藤井聡太名人は、小さい頃からコンピュータ将棋と勝負をしながら、強くなってきたという。当たり前である、今やAI(コンピュータ)が一番強いのであり、どんどんデータ(定石を裏切る定石)を入力していけば、常に名人より強くなるわけであるから、まさに名人を超える強さを持つわけである。これから出る若い指し手も、常にコンピュータ将棋と対局をし、腕を磨いているらしいが、勝負はコンピュータがアウトプットした定石をどれだけ、自分にインプットしているかというだけになり、藤井名人のような人間がどんどん現れてくるのではないだろうか。そう、先にも後にも勝負はどれだけコンピュータ(神)の忠実な仲介役になれるかでしかなくなり、一番の痛手は、それを見ている将棋ファンも対局するのはコンピュータだけになり、人間同士の対局に何ら面白味を感じなくなってしまうという危険性である。結局、法則性が明確なものはAIに変わってしまい、価値の増殖がなくなってしまうという災厄のパターンに突入していくようになるのでは?

 私は競馬をよくやるが、一番の目的は、競馬に勝つ法則性があるのではないかと日夜、金をつぎ込み溶かしているのだが、勝って、これぞ法則という瞬間もあるのだが、瞬間だけで、もろくも法則性は崩れさるのである。しかし、法則性があって、常に勝っていたら、そもそも競馬というゲームが成立しないだろうし、面白くもなんともないであろう(競馬のコンピュータ予想ほど当たらないものはない-でもこれでイイのだ)。偶然性と博打性があるから面白いのである。釣りへ行って、いつも釣れていたら、きっと釣りを止めてしまうのではないか、釣れない日があるからこそ釣れる日が嬉しいのである。プロや野球も勝つ野球などと広岡達朗監督が西武率いて、細いゲームをやり、データ野球などと言って野村克也監督が貧乏臭い、姑息な野球をやり出した時から面白くなくなったように私は思う(現在高校野球の方が面白い)。いつもオール7が出るパチンコなどだれが行くだろうか。極端な話になってしまったが、もう一丁極端なことを言えば、人生も決まり切った法則性(失敗しないような法則性のある安全なレールを引いた人生-あまり浮き沈みの少ない人生)を求めすぎると、利口な人というお褒めの言葉をもられるかもしれないが、ツマラナイ人生を送るはめになるような気がするのだが如何か…。先の世などは見えないからこそ良いのである。
 法則性は権威と安全をくれるかもしれないが、ひょっとすると世をツマラナクさせる元素であるかもしれない。でも大リーグの大谷よりも藤井聡太名人の今後の動向が気になるのは私だけだろうか。藤井名人フケ過ぎじゃない。