根岸叢話①-序・根岸残照

 この地(台東区根岸)を塒(ねぐら)にして、もう10年ほどが過ぎた。ここまで同じ土地に根づいたのは、当然自分の意志でなく親の意向で住んだ幼少から青年期までの土地しかない(足立区、横須賀)。親から独立した後は、2年間が最長で、転々と住処を変える引っ越し魔状態だった(野方、江古田、東小金井、阿佐ヶ谷、大塚、東中野、新小岩、西日暮里―何と落ち着かない人生よ)。
 そして根岸に居を移した時も、同じように仮の宿的な雰囲気だったのだが、あら不思議、とうとう11年が経とうとしている。年齢的に引っ越しも億劫だということもあるだろうが、それだけではない、何かがあるのも確かなようである。
 ここを塒に選択した最大の理由は「東京で交通の便が良く穴場的な場所はどこかな」と考えた時に、山手線で一番住みたくない場所No.1の<鶯谷駅>が頭に浮かび(乗降客の少なさもNo.1)、周辺環境も東京の中でもピカ一嫌われている場所(駅前が日本最大のラブホテル街、吉原<ソープランド街>や山谷<愛隣一今や路上生活者も少なくなっている>地区が近いというのも拍車がかかる)で、またピカ一知られてない駅ということ、そしてガキが少なくオシャレではない町だろうという予想からであった。
 そういえば、かつて小説家の安岡章太郎※1が山手線沿線についてのエッセイの中で、品川駅と上野を過ぎ、鶯谷から大塚までの間の<陰気>を語っていた時があったが、後者の場合は江戸の東北<鬼門>という暗いイメージが現代でも根強く残っているからなのか、確かに気のせいか<光の差し込み>が幾分どことなく西南地区より弱いように感じるのである。
 しかし、根っからの<アマノジャク>の私は、大衆にこれだけ嫌われているのは、こりゃ絶対に良い場所なのだなと、俄然住む<気>が湧いてきたのであった。
 こんな私も、はじめにこの地に足を踏み入れた時は、周辺地域の超昭和場末感に「これは間違ったかな」と<不安感>が心に過(よぎ)ったが、しかし、駅前のホテル街を過ぎ、言問通りを越えると、あらまあ静かな住宅街に入り、それが日暮里、下谷、入谷と三方に広がるのである。ここが有名な江戸名所図会の<根岸の里(根岸の里の詫び住まい)><日暮らしの里(見処多し日暮らしの里)>かと、言われれば首を捻らざるをえないが、それでも駅前の淫靡なネオン街とは雲泥の差がある
 そして、その<根岸の里>ならぬ根岸に住み始めて半年もすると、徐々に当初のイメージは払拭されていき、さすがに歴史のある町、その町の魅惑と深味に圧倒され興味がつきなくなってきた。まさに私にとっての<心地よい詫び住まい>になったのである。
 文芸評論家の磯田光一※2は「住む場所も、その人の思想の現れである」と語っていたが、根岸は私にとって「思想の現れ」などと言うのは烏滸(おこ)がましいが、「思想の兆し」くらいは現れでてきた場所になったのではないか。というか、この場所や周辺地区をぶらぶら歩き、土地の関連書などを紐解いているうちに、さらにまた関心の幅が広がり、どんどん深味にハマっていくという循環が起きたようである。
 江戸、明治、大正、昭和と、この土地がどんな場所であったのか、そして、最大の関心は、己の意志か偶然かはわからないが、この土地に足を踏み入れて生活していた人々が日本の歴史に残していった<もの・こと>などにである。<いま・ここ>での根岸にいながら、過去の<金曾木>に想いを馳せている自分がいる。<見返り柳>近くの銭湯に入りながら、日本堤を歩いている過去の<通人たち>が目の前に現れる。三ノ輪・浄閑寺で吉原遊女たちの墓に手向けをしていると、後ろに歯の欠けた下駄履き姿のスケベそうな爺さんが現れ、厳しい顔で私を見つめている。過去・現在の時間の流れが頭の中でシンクロし、それが<いま>の私の心に慰めと癒しを与えてくれるのである。

  水無月や根岸涼しき笹の雪       子規

  落ちぶれて椿咲く根岸かな        丙午  

                                  続く

※1安岡章太郎(やすおか・しょうたろう)、1920年(大正9年)東京生まれ、小説家、文芸評論家。 『悪い仲間』『陰気な愉しみ』で芥川賞を受賞。2013年(平成25年)12692歳で没するまで、旺盛な作家活動を展開した。『海辺の光景』で芸術選奨・野間文芸賞、『幕が下りてから』で毎日出版文化賞、『流離譚』で日本文学大賞を受賞。

※2磯田光一(いそだ・こういち)、1931年(昭和6年)118日横浜生まれ 、日本の文芸評論家、イギリス文学者。著書に『殉教の美学』(冬樹社)『思想としての東京』 (講談社文芸文庫)『鹿鳴館の系譜』(講談社文芸文庫)他。1987年(昭和62年)2556歳没

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