かつて、会社を畳み、とりあえずは早急に日々の糊口をしのがなければと、様々な仕事に手を出した時期があった(俗に言う時給うん千円のパート仕事である)。そういう仕事なので、当然、肉体労働が多く、身をやつした自分に対して情けない気持ちと、時給労働の悲惨さを知り、やさぐれた時もあった。しかし、何とか仕事を持続させて、貧しいながらも生きていくことができたのは、社長時の会社末期の資金繰りの苦しさに比べれば屁でもないという気持がそうさせたような気がする。
そんな仕事を繰り返しながら、貴重な体験をしたなと思うこともある。それは様々な外国人労働者と一緒に仕事をしたことである。中国、モンゴル、韓国、バングラデッシュ、パキスタン、スリランカ、ベトナムと色とりどり、よくもこれだけの外国人を集めたものだと感心させられた労働現場もあった。
その中で、ピカ一際立って驚いた外国人労働者は、体験がある人は同意してくれるだろうが、中国人だった。何が一番驚いたか、出会った中国人(5人)の全てが、相似形で理解不能な人間が連なっていたことだった。そんな中でも、私は、彼らとまじって上手くやっていたと思うが、この上手くやっていた私が、「こらゃ、アカン」と思うことが度々であったのは事実である。例を出したら限(きり)がないから、今回は差し控えるが、よくもまあ、これほど似通った人間ばがりなのかと驚嘆した思いがあった。
はじめのうちは、本人の個性であり、中国人だからというのではないだろうと高を括っていたが、中国人A、中国人B、中国人C……と<ではない>という人は、一人もいないのである。「それは十郎さんの偏見だよ」と笑っていた活動家上がりのオッサンも、一緒に仕事をしだすと、だんだんと「いやー。中国人と仕事できんわ」と根を上げだし、最後は喧嘩をしだす始末であった。
一体、これは何なのか、「日本人、どうでもいいことに拘って、大事なことにはいい加減ね」と馘になった中国人が捨てゼリフを吐いて事務所を出ていったことがあった。それを聞いて、言い得て妙だなと感心しながら、でも、この場所で「大事なことってなんだろう」と首を傾げる私がいた。
ここに、私たち日本人が常識として身に沁みているものと、違う意識を持った人たちがいるのは確かなようなのだか、その身に沁みているものが、私たちだけの特殊なもののようには思えないので<常識とはある範疇と範疇内でしか通用はしないことぐらいは分かるが>、彼らに対してある<混乱>をきたすのである。
そんな彼らと仕事をしなくなり、5年が経つが、彼らとの体験からではないと思うのだが、最近、すごく中国に関心を持つようになり、中国(東洋)の歴史、哲学の書物に目を通すようになったのだが、中国は、ほんとうに徹底的に<政治>の国だということを認識したのである。
私は常々日本の文化は一流だが、政治は五流であると思っているが、この政治五流の国が政治一流の中国に太刀打ちできないのは目に見えていることが最近やっと分かってきた。
そもそも、彼らに自分が中国人という意識があるのだろうかも疑問なのである。2,500年以上前から様々な民族による王朝国家の入れ替わりがあり、現代は共産党の一党独裁国、しかし経済だけは自由経済を奨励しているという鵺(ヌエ)のような国である。常識的には<香港>のような暴動が起きるのがあたり前のように思うのだが、そこは<政治>一流国。習近平のようなあの腹黒い<不気味な顔>の皇帝陛下が、始皇帝、煬帝、毛沢東のように、民に恐怖を与えて続いているのである。これから日本はどうすればよいのか、一つはやはり<肌理細かい文化>を提出して、あいつらの鼻を明かし、リスペクトさせるのが一番のような気がするが、いかがであろうか。
投稿記事