オリエンタルシンキング⑦

明治神宮考①―そして大プロジェクトがスタートした。

 季節の変わり目は、天候や気温が安定せず、それが人間の体や精神にも変調をきたし、何だか活気がなくなり、憂鬱な気分で、塒(ねぐら)でボーゼンとしていることが多くなる。それではいけないと、背を正し腰を上げるが、ただただ億劫なのである。そんな時は、日がな一日本を読んだり、音楽を聴いたり、映画を観たりして暇をつぶそうとするのだが、何だか気散じて集中ができない。しかし、そこを何とか気を振り絞り、面白い本はないかなと、書棚に積読(ツンドク)している本の中から1冊を手に取り頁を捲ると、あら不思議、偶然、幸運にも面白くて止(と)められない止(や)められないカッパえびせんのような本に出会ってしまったのである。その本は山口照臣(東大教授)『明治神宮の出現』(吉川弘文館刊)で、私のように、神社を巡りが好きな人間には必読の書なのだろうが、何故何年間も積読していたのだろうかと反省しきりなった次第である。
 明治神宮は言わずとしれた、明治天皇とその后・昭憲皇太后をお祀りした東京の神社で、空間的も他の東京の神社の追随を許さぬ広さであり、今や、正月の参拝客の数が毎年断トツにナンバー1の神社である。しかしながら、その成立の過程は、案外知られていないのではないだろうか。例えば、明治天皇だけ神社(神宮)があって大正天皇や昭和天皇になぜないのか、またどうし現在の場所にあるのか、神宮にはどうして内苑と外苑の二つがあるのか、表参道はどうしてあの位置にあるのか他、東京人なら、いや日本国民であるならば、知っておくべきだろう知識を学べる貴重な本なのである。
 マクラが長くなったが、そこで、今回は3回にわけて、この本をベースに、私の明治神宮考を述べさせいただき、読者の方々にも今一度、明治神宮、いや、明治天皇や明治時代を振り返る際の少しの手助けになればと思い筆を進めせていただければと思うのである。
 まずは、明治神宮の成立の歴史を簡単に述べさせていだく。明治神宮は大正9(1920)年創建で、祭神は前述のとおり明治天皇とその后・昭憲皇太后で、旧の社格は官幣大社、勅祭社なので、当たり前だが神社としては最高の位である。神宮というのは歴代天皇をお祀りしている場ということである。故に伊勢神宮は天皇の祖神である天照大御神をお祀りしている場である故に神宮の大本として一番の格式がある。あれ大本といえば伊弉諾尊は天照大御神の親なのだから、それを祀る淡路島の伊弉諾神宮が一番の格式なのではと問う人がいるかもしれないが、この両社に上下関係はないようである。
 明治45(1912)年に明治天皇が崩御した際には、5年後の明治天皇即位50年の記念行事の計画が進んでいたのだが、崩御の際には明治、また明治天皇を記念するものを東京へというプランが様々出たそうだ。その一つが東京に明治天皇の御陵(お墓)をというものだったのだが、陛下は、自分の墓は17歳まで暮した京都にという生前の遺志により、京都伏見(桃山陵)に決まってしまう。それではそれ以外に何かという、その何かの中に「明治天皇を祀る神社」という案があった。当初は多くは銅像や記念碑、美術館等、明治天皇を記念するものという案がでて、「神社建立」に対する動きは、それほどではなかったのであるが、どこからともなく、その「明治天皇に対する尊崇」の念という純粋な国家、国民意志が沸き起こり、人々を神社建立へと向かわせていくのであった。そして、始まったのが「明治神宮建立」という大プロジェクトである。国と国民が目的へ向かって一体となって進められてゆく大プロジェクトは後にも先にも、もうこれが最初で最後なのかもしれない。そう思わせるほどの大事業が大正元(1913)年東京市長・阪谷芳郎、実業家・渋沢栄一の音頭でスタートし、神宮創設の『覚書』が公表されたのであった。
 まず、はじめに神宮をどこに置くのか、その建立場所である。この『覚書』が発表されると各自治体から我が土地へ神宮を、という請願が殺到し、東は国見山から西は冨士山までその数20以上にも及んだと言う(東京では戸山、上野公園、駿河台、目白台、御嶽山、千葉は国府台案、埼玉は飯能、神奈川は箱根、静岡県は冨士山、茨城県は筑波山、常陸太田の国見山)。それでは『覚書』の誘致基準は何か?明治天皇との由緒(関係性)と風致(その土地が明治天皇を祀るのに相応しい雰囲気―「荘厳」であったり、「雄大」であったりーを備えていること)なのだが、自治体の思惑や応募理由が興味深く、例えば飯能の由緒は「明治十六(1883)年四月十七日から十九日にかけて、軍事演習のため明治天皇が滞在したこと」、おいおいこれだけかと誰でも主張したくなるが、故に飯能は由緒では勝ち目がないので、朝日山の風致を強く主張した。「朝日山を神路山、入間川を五十鈴川に見立て」て、伊勢神宮をモデルとし、都市環境に汚されていない「清浄無垢」で原始的状態であることを請願の理由とするのであった。自治体の皆さんの必死さは分かるが、何だか<今・ここで>から、それを眺めると滑稽感は否めないが、待てよ、数年前、この飯能の入間川沿いの土地を歩いたが、確かに、伊勢神宮の空間と似ていなくはないような気がしてくるから不思議である。ひょっとして、ここに明治神宮があったらなら面白かったかもしれない。しかし、また、もし、明治神宮が、現在の代々木の土地に不在だったら、この辺はどのような土地になっていただろうかと、考えてしまうのも人間の性で、東京も現在とはかなり違った都市になっているのではないかと、今明治神宮の森があることの幸福を思わざるをえないのである。やはり東京ではバツグンに穏やかな空間である。結局その後、神宮は代々木練兵場と青山練兵場を内苑と外苑とし、連絡通路を千駄ヶ谷と青山通りから表参道を含む形で建立することに決着したのであった。
 さて、この約22万坪(73ヘクタール)の広大な神域は、寛永17(1640)年より彦根藩主・井伊家の下屋敷になっていた土地で、明治7(1874)年、井伊家から明治政府に買い上げられ南豊島御料地となっていたのだが、神宮の建立当時は、それこそ雑草や灌木類しか生育していない不毛の原野で、この土地を明治天皇を祀るのに相応しい風致のある土地しなければならないという問題にぶつかるのであった。
 現在、「神宮の杜」はまさに、誰がみても自然林で覆われた空間のように見えるが、この土地は人間が作り上げた<人工の森>なのであるというと、誰でも驚くのではないだろうか、次回は、『明治神宮内苑境内林苑化計画』なるものが如何なるものだったのから話を始めたいと思う(次回に続く)