「清掃夫は見た」カテゴリーアーカイブ

清掃夫は見た-?だけど、愛しき人々➇

外資系高級ホテル編

第5章  哲ちゃんの呟き

 このホテルの清掃員になって忘れらないことがある。
 深夜2時半頃、私はグランド〇〇〇ホール横の展望テラスの掃き清掃をしている時だった。その展望テラスの下は芝生に覆われたH公園が広がり、昼夜問わず憩いの場所として人気のスポットなのである。その時は櫻が終わり、緑はさらに濃くなりつつあり、まさに陽気が充満する季節であった。さすが深夜は薄い電飾で仄かに明るいところはあるがほとんど真っ暗で静まりかえっていた。テラスの清掃を一通り終え、さてホテル内に戻ろうとした瞬間、何やら人か動物か、雄叫びが耳元に聞こえた。ちょっと気になったので、テラスの端に行き、闇に包まれた公園を見渡し、耳を傍立(すまし)た。するとまた人の泣き声か、はたまた犬の遠吠えのようなものか聞こえてきかと思うと、少しすると止んだ。また数分後、今度は騒めきのような粗雑音に変わった。その時は変だなと思いながらも、次の仕事が控えているので、そそくさとホテル内に引き返した。
 翌日、昼に目を覚まし、テレビをつけると、どこのワイドショーも超人気アイドルグループのメンバーKが逮捕されたというニュースで持ち切りだった。そんなことに関心のない私だったが、ニュースを聞き流していると話題の中に午前2時半頃、H公園、泥酔で大声、裸というキーワードが耳元に。これは聞き捨てならないと、さすがに画面に目を向け、耳を凝らすと、まさに、昨日、私がテラスでの作業中の奇妙な反響音は、Kの声だったのだと、さすがに、こんな事件に普段は感心を示さない私も驚きだったのである。
 ただ、このK、ホテルの隣の高級レジスタンス(住居)に住んでいるということは有名で、この公園は自分の庭みたいなもので、自宅近くで酔っぱらって羽目を外してしまった(裸になることはないが)と考えると、超国民的スターだからであって、一般人ならなんでもないショーモナイ事件なのであるが…。

 整骨師の国家試験に合格して、やっと整骨師の仕事が見つかったという繁田さんが来週一杯で辞めるというのでお別れ会が開かれた。またヤンキー大橋が幹事になり、高木、松永、田中、岡島、荻野と私が集まった。当然馘になった崔さんと田辺の話題から会がはじまった。
 岡島は、以前とは打って変わって今度は「しかし、ひどいよ」と崔の行為を攻めていた。二度の中国人にお騒がせ事件に、私たち一同、中国人はこういうものだという完全にバイアスが掛かってしまったのである。今後中国人というと13億もいるのに、趙、崔のような人という偏見でしか見ることできないだろうと思うと悲しいが、他でも中国人の唖然としてしまう性質(タチ)の話を聞くたびに、さもありなんと思いで驚かなくなり、慢性化してしまうのも危険なのである。
 田辺の話は、田辺より、モンゴル人の腕っぷしの強さが酒の肴になり、大相撲のモンゴル旋風もあの小さなマンドラがあんなに強いのだから何かを況やであるという結論に達したのであった。
 田辺の場合は、彼の現状が余りも深刻で悲惨なので一緒にアルバイトを続けていれば、それぞれ手助けをしてやれたかもしれないが、あんな形で自滅して辞めてしまっては自分たちも手の施しようないので皆言葉少なだった。
 そんなことよりも、今までほとんどが悲惨な形でしか人が辞めていかないなか、繁田さんの前向きな退職が嬉しかった。55歳で会社のリストを受け、退職金を全て鍼灸・接骨学校の入学金と学費に使い、生活費をこのホテルの清掃の稼ぎで賄っていた彼も、働きながら内心忸怩たるものがあったと思う。
 「ここで働いている姿を、会社の同僚には絶対見られたくないよ」と口にしていたことがあったが、これが本音だろうと思った。彼はまた独身で、介護の必要な父親と一人暮らしであるとも言っていた。
 一番仲のよかった高木が
 「繁ちゃん、俺お店行くから安くやってくれる」と言うと
 「高木さんはそれよりその糖尿病を何とかしないとね」
 「糖尿病は何ともならんよ」
 「違うよ、もっと節制しないとほんと70歳までもたないよ」
 「いいんだよ俺なんか、女房、子供にゃ捨てられるし」
 「そりゃ自分でまいた種だからしょうがないでしょう」と大橋が口を挟む。
 「大橋、お前にだけは言われたくないよ」と高木さんは笑う。
 「それより早く俺もここから脱出したいよ」と荻野言った。
 「窯作るって、どこらへんを考えているの」と松永さんが荻野に聞く。
 「まあ、千葉か埼玉あたりにかな、ただどんなものかな」と荻野は焼酎ロックを舐め言った。
 その時、伊藤と仲がよく、会社の内部事情に詳しい田中が
 「噂だけど12月に三上が戻ってくるらしいよ」と口にすると。
 一同、場が静まったかと思うと高木が
 「嘘だろう」と言って目を丸くした。
 「あいつ社員になったらしいよ」と田中
 「何で島流しのアルバイトが社員になれるのよ」と荻野
 「そこなんだよ。伊藤さんも首を傾げていたけどね」
 私は非常に気持ち悪い、嫌な予感がして
 「あいつが来るのなら、俺辞めたくなってきたな」と言うと
 「俺はグッドタイミングだな」と繁田さんが笑った。
 「松永さんは、三上とコンビが長いから大丈夫でしょ」と大橋が聞いた。
 「大丈夫じゃないけど……」
 「しかし、アイツが班長にでもなったら大変だろう。でも田中さんはああいうタイプ好きでしょ」と荻野が言った。
 「真面目な人だと思いますよ」と飲みなれない酒を、ソフトドリンクに変え田中が答えた。
 「その真面目が怖いのよ」と高木さんはもう一杯ウーロンハイを注文した。
 三上が戻って来るという話題はその後の早朝の飲み会を暗いものにしてしまい、早々とメンバーは打ち上げしたのであった。

 清掃の中で、皆一番嫌がる仕事がトイレ清掃なのだが、多くの清掃現場は女性が担当するのだが(これをまた<差別>なんどと言う輩がいるが、これはただ単に男性が女性便所に気軽に入って清掃していたら使用する女性は嫌だろうし、清掃する側も男性では何かと利便性に欠けるので、女性中心にならざるをえないだけなだけで、こ奴らは何も分かっていないのである)、このホテルの深夜清掃は男性だけなので、女性トイレも私たちがやらなければならなかった。
 しかし、なぜかこの現場はトイレ清掃が人気で、私も担当がトイレになると、心の中で「ラッキー」と呟いていた。理由は、トイレ清掃は他の清掃と比べ動き回ることが少なく、体力的に楽だというのが一番で、床に小便(おしっこ)の地図が出来ていようが、便器に○○チが付いていようが、嘔吐(ゲロ)が撒き散らしてあっても、動きが少ないというのは天国なのである。

 少し話が変わるが、深夜のルーチンの仕事というのは、昼間の仕事よりも同じ仕事をしていても数倍疲弊するというのがこの仕事で分かったことは私に大きな意味があった。当たり前のことだが、だから時給も高いのであるが、人間(動物)は日の出とともに活動し、落ちるとともに活動を停止してきたわけであって、その習慣は太古以来、DNAに沁みついているのである。いくら近現代で、仕事の時間にも変化が現れたといっても、この習慣はある絶対的な何かがあるように思う。故に私は、ここを辞めて以来、現在まで、ルーチンの深夜肉体労働はやらないことにしている。
 話は逸れたが、このホテルのトイレ、さすが抜群に清潔で、今までこんな豪華でキレイなトイレを見たこともないのだが、それはそれ、そこを人が使用すれば汚れるのは世の常で、それを以前の完璧な清潔なトイレに戻し、再現するのが私たちの仕事である。まずは男性用ではブラシで小便器と大便器をピカピカに磨き、タオルで周囲と床を拭(ふ)き、水タオルで大鏡を指紋一つ残さずに拭(ぬぐい)、流しに毛一本残ってないかを確かめながら丹念に汚れとりをしていく。その後お客さま用の使用手拭きを回収し、新しい手拭きをキレイに丸めて一つ一つ漆塗りの盆の上に重ねていく。そして、また元の豪華な美しいトイレが完成されていくのである。このトイレ、ここで寝泊り、食事をしてもそれこそセレブ感を味わえるのではないかという代物なのである。
 やはり案の定ではあるが、不埒な輩が出没するのである。ホテルという割と出入りが自由な空間であるため、このトイレといってはいるが、一般家庭のリビングよりも美しい空間にホームレスが目を付けないわけがないのである。

  清掃メンバーが名付けた通称哲ちゃんが、度々トイレに現れだしたのは昨年もそうだが12月半ば寒さが本格化しつつある頃だった。この哲ちゃん、身なりは清潔とはいえないが、普通にこの程度は巷に徘徊している中年のオッサンで、見た目ホテル側が受け入れを拒否できるほどに悲惨な姿をしているホームレスではないだけ、こちら側も扱いにくく、はじめは自在にトイレを利用していた。
 なぜ哲ちゃんかと言うと、髪が真っ白で、伸ばした髯と相まって、まさに仙人か、ギリシャの哲学者のような風貌で、目つきと頰の削げ方がどことなく知的なため、誰が命名したわけでもなく、哲ちゃんというネーミングが浸透するようになったのである。
 何せ大便室に入って鍵を閉めてしまえば、何時間そこに潜伏していようが、こちらは手出しができないのだから、哲ちゃんにとっては天国。飯を食べようが、酒を飲もうが、眠りにつこうが勝手気ままなのである。
 私たちもお客さんが入っていたと言えば、そこだけ清掃が出来なくともそれは問題ないわけである。
 「今日は哲ちゃん、何かズーッとブツブツ言ってたよ」
 「あいつ挨拶もなく、平気でお盆の手拭い持っていきあがったよ」
 「ただ出て行くとき、綺麗に掃除していくのは感心だよな」
 「アイツ週何回来てるの」
 と、トイレ担当は、清掃が終わると口々に哲ちゃんの話を他のメンバーに話すのが日課になりつつあった。
 しかし、今から考えると、なぜこういう人間が深夜にトイレに潜伏していることを誰もホテル側に伝えなかったのか、私たちの中に、どこか彼に対して慈悲の気持ちがあったのか、その変はわからないが、何故か誰もこういう不審者がいるとはホテル側に告げなかったのである。
 哲ちゃん、誰にも咎められないのをいいことに、日増しに行動が大胆になってきた。
 最初のころは、一回大便室に入ると、トイレを去るまで顔を出すことはなかったが、ちょくちょく何食わぬ顔して平然と私たちの前に姿を現すようになり、何か独り言を呟いている。耳を澄まして良く聴いていると
 「この土地は、昔俺のご先祖さまのだったの、だからよ……」
 「俺は、もとはお前らより、ズーッと偉かったんだよ……」
 「おりゃ女房叩いてやったんだ。そしたらいなくなっちゃったんだよ」
  誰に向かって喋っているのか、聞きづらいのだが、意味の判る言葉もいくらかあった。
 「それなら、オッサンのご先祖さまはC藩の殿様か」と私が茶々をいれると、
 哲ちゃん、目を見開いて、こちらを鬼のような形相で見つめたので、怖くなり何関せず作業に戻ると
 「バカヤロー、お兄さん煙草持っているか」と厚かましく要求しだした。
 私は頭に来て
 「あるけど、お前にやる煙草なんかないよ」と吐き捨てて言うと、そそくさと大便室に戻っていった。

 謙虚に、夜の避難場所で静かにしてればいいものを、哲ちゃん、こちらが甘い顔をしているとどんどんつけあがってくるようになってきた。他のメンバーにも、最近の哲ちゃんの様子を聞いてみると、同じように態度がデカくなっているということだった。
 こうなると哲ちゃんのハイクラスホームレス生活も危うくなりだすのは当たり前のである。メンバーも今まで慈悲の心を持って、哲ちゃんをやむを得ず居させてやっていたが、誰れが言うこともなく、哲ちゃんの追い出し作戦が始まった。しかし、さすがC藩のサムライを先祖に持つだけあって彼の抵抗も並ではなかった。凄いのは何かを察したのか、毎日のように現れていたのを1日おきにしたり、何週間も現れることがなかったり、こちらを安心させたかと思うと、フェイントをかけているのか、こちらが忘れかけていた時に、また忽然と姿を現し、音もせず静かに大便室に籠もっているのであった。

 しかし、そんな彼の戦略や豪華なホームレス生活も終止符を迎える日が突如と来たのであった。その日は東京が昨日の大雪に埋もれ、底冷えのする寒い朝だった。仕事が終わり従業員口を出るといつもは静寂に包まれていて、人などほとんどない裏手の公園の気配が日常(いつも)と違かって騒がしかった。
 このホテルのある複合ビルと公園は土地全体が江戸時代C藩の下屋敷だったところで、明治になり政府の軍関係が土地を取得し、昭和になっても軍の関係機関があったところで、戦後も防衛庁が使っていた土地で、公園の池と周辺はC藩の下屋敷当時のまま保存されていた。何だろうと公園を覗きに足を進めていくと、池畔に救急隊が二人の警察官を伴って、毛布にくるまっている人を担架で救急車に運びいれるところだった。それ何人かのやじ馬が眺めていた。公園は真っ白な雪に覆われていたが、池だけは灰色に染まりそのコントラストが鮮(あざ)やかだった。
 一緒にいた高木さんが
 「ありゃもう死んでるな」と元消防隊員の彼は現場を見ればどういう状況なのか察しが付くのだろう、ポツリと呟いた。
 私たちは、やじ馬に近づいていき、
 「どうしたんですか」と言葉を口に出すと、
 「いや、酔っ払いが寝ちゃって凍死かもしれないね」とその中の一人が言った。
 「これだけ寒くちゃ死んじゃうよな」と続けて誰かかが言った。
 その時は都会では頻繁にある行き倒れの野垂れ死にかと、少し現場を眺めてから、雪で足場が危うい中を家路に急いだのだった。
 私の中でその凍死者と哲ちゃんが結びあわされたのは彼がトイレに来なくなって3ヶ月ぐらい経った後だった。確証はないが、何だかあれは哲ちゃんだったのではないかという思いが偶に頭に浮かんだのだが、ただの一人のホームレスのことなど忘れていることが多かった。その1年後、このホテルのアルバイトを辞めたが、その間、哲ちゃんは現れることはなかった。もし、哲ちゃんがあの凍死者であれば、なぜ、トイレに現れることなく凍死してしまったのか、そういえばここの土地の持ち主は、昔俺の先祖だったと言っていたが、それが本当ならば、彼がどんな人生を送ったかは知らないが、自分のご先祖さまの屋敷の土地だったところで人生を終えて、哲ちゃん、幸福だったのではなどと有らぬことを考えてしまうのであった。いや、定かではないが、きっとどこぞの高級ホテルで懲りずにまだ超豪華ホームレス生活を送っているかもしれないが……。