根岸叢話③ー「生の<哲学>」の実践者・子規居士

 JR鶯谷駅南口を出て右へ坂道を上って行くと、東叡山寛永寺の裏庭だった場所に出る。この寛永寺、徳川時代に比べると敷地面積は小さくなったといえ(江戸時代は上野の山全てが寛永寺、現・噴水広場が中堂、現・国立東京博物館が本堂、博物館裏手にある庭が小堀遠州作本堂庭)、まだまだ高貴な威厳は保たれており、上野の山のシンボル的な位置づけは保たれている。そして、左に行き凌雲橋(跨線橋)を渡り下ると、ラブホテルが密集した昭和の匂いが残る繁華街にでる。この駅に降り立った者は、いやがうえにも少し大げさだが「生と死」の境界に立つことになり、その<気>を受けざるをえないのである。
 以上のことは、鶯谷を語るときによく言われることで(『鶯谷』本橋伸宏著)、何も目新しくはない。戦後、駅の下手(しもて)に自然とラブホテルが増え、現在では日本一の密集率になり、<性の街>という負のイメージとともに上手(かみて)の寛永寺(死者を送る場所)の厳粛な場所とのシンメトリーが、駅の存在の地味さ加減(山の手線最低の乗降客数)と重なり、興味本位に解釈されるのだろうと思う。
 しかし、そんな解釈も根岸に120年前に住んでいた子規居士に想いを馳せると、的外れでなくなるから面白い。居士は、その「生と死」の境界でモガキ、苦しんで、真摯に生きた人だからである。居士は晩年この根岸の(現根岸2丁目-ホテル街)庵で、何度も脊椎カリエスによる壮絶の痛みの中(臀部や背中に穴があき膿が流れ出る)、「死なせてくれ」と絶叫、首を括ろうとし、彼岸へ足を踏み出そうとする。しかし、翌朝痛みが治まると、その反動か、今度は生への熱を発散し根っからの好奇心と健啖家ぶりを発揮、旺盛な生活力を漲らせるのである。

 五月十日、昨夜睡眠不定、例の如し。朝五時家人を呼び起して雨戸を明けしむ。大雨。病室寒暖計六十二度、昨日は朝来(ちょうらい)引き続きて来客あり夜寝時に至りしため墨汁一滴を認(したたむ)る能はず、因つて今朝つくらんと思ひしも疲れて出来ず。新聞も多くは読まず。やがて僅わずかに睡気を催す。けだし昨夜は背の痛強く、終宵(しゅうしょう)体温の下りきらざりしやうなりしが今朝醒(さめ)きりしにやあらん。熱さむれば痛も減ずるなり。
 睡(ねむる)。目さませば九時半頃なりき。やや心地よし。ほととぎすの歌十首に詠み足し、明日の俳句欄にのるべき俳句と共に封じて、使(つかい)して神田に持ちやらしむ。
 十一時半頃午餐(ごさん)を喰ふ。松魚(かつお)のさしみうまからず、半人前をくふ。牛肉のタタキの生肉少しくふ、これもうまからず。歯痛は常にも起らねど物を噛めば痛み出すなり。粥(かゆ)二杯。牛乳一合、紅茶同量、菓子パン五、六箇、蜜柑(みかん)五箇。
 神田より使帰る。命じ置きたる鮭(さけ)のカン詰を持ち帰る。こはなるべく歯に障(さわら)ぬ者をとて択びたるなり。
 『週報』応募の牡丹ぼたんの句の残りを検す。
 寐床の側の畳に麻もて箪笥たんすの環(かん)の如き者を二つ三つ処々にこしらへしむ。畳堅うして畳針透とおらずとて女ども苦情たらだらなり。こはこの麻の環を余の手のつかまへどころとして寐返りを扶(たす)けんとの企(くわだて)なり。この頃体の痛み強く寐返りにいつも人手を借るやうになりたれば傍に人の居らぬ時などのためにかかる窮策を発明したる訳なるが、出来て見れば存外(ぞんがい)便利さうなり。
 繃帯(ほうたい)取替にかかる。昨日は来客のため取替せざりしかば膿(うみ)したたかに流れ出て衣を汚せり。背より腰にかけての痛今日は強く、軽く拭(ぬぐ)はるるすら堪へがたくして絶えず「アイタ」を叫ぶ。はては泣く事例の如し。
 浣腸(かんちょう)すれども通ぜず。これも昨日の分を怠りしため秘結(ひけつ)せしと見えたり。進退谷(きわま)りなさけなくなる。再び浣腸す。通じあり。痛けれどうれし。この二仕事にて一時間以上を費す。終る時三時。
 著物(きもの)二枚とも著(きか)ふ、下著(したぎ)はモンパ、上著は綿入。シヤツは代へず。
 三島神社祭礼の費用取りに来る。一匹(ぴき)やる。
 繃帯かへ終りて後体も手も冷えて堪へがたし。俄(にわか)に燈炉(とうろ)をたき火鉢をよせ懐炉(かいろ)を入れなどす。
 繃帯取替の間始終(しじゅう)右に向き居りし故背のある処痛み出し最早右向を許さず。よつて仰臥(ぎょうが)のままにて牛乳一合、紅茶ほぼ同量、菓子パン数箇をくふ。家人マルメロのカン詰をあけたりとて一片(ひときれ)持ち来る。
 豆腐屋蓑笠(みのかさ)にて庭の木戸より入り来る。
 午後四時半体温を験(けん)す、卅八度六分。しかも両手なほ冷(ひや)やか、この頃は卅八度の低熱にも苦しむに六分とありては後刻の苦くるしみさこそと思はれ、今の内にと急ぎてこの稿を認(したた)む。さしあたり書くべき事もなく今日の日記をでたらめに書く。仰臥のまま書き終る時六時、先刻より熱発してはや苦しき息なり。今夜の地獄思ふだに苦し。
 雨は今朝よりふりしきりてやまず。庭の牡丹(ぼたん)は皆散りて、西洋葵(せいようあおい)の赤き、をだまきの紫など。

(五月十二日)『墨汁一滴』

 そして、このように居士の面白いのは、居士の<生>が決して暗く深刻には伝わってこないことである。そこに可笑しみとユーモアが混ざり、最後には禅問答のような深淵な広がりを持った境地さへ垣間見せるのである。
 その辺は居士の日記三部作(『墨汁一滴』『病状六尺』『仰臥漫録』)を読んで欲しい。読者は、こんな痛みの中で、よくこんな食欲や表現欲が出るのか、ついそのポテンシャルに、崇高な畏れさえ感じてしまうのだが、そこに居士の尋常でない凄みがあるのである。
 この居士、もし病気でなかったら、俳人以上に、もっと凄いことをやらかしてくれたのではないだろかと惜しくてしょうがないが、歴史にイフはないのである。それよりも<生の哲学>を実践し見せてくれた先人がいたことだけでも我々は幸福なのである。居士はその「生と死」の間(ハザマ)を振り子のように行きつ戻りつしながら、<生>を全うしたのである。彼の<死>への意識が<生>へのあくなき欲望を生み出し、<生>そのものが<死>さえ包みこむほどの強靭な精神力を生み出していったのである。
 故に、彼の言葉は我々に生きることの奥行と奥深さを教えてくれる。現在の我々の<生>が希薄なのは、生命への尊重のみで、死を遠ざけ、その意味を等閑(なおざり)にしているからではないだろうか。
 皮肉なことに、彼の死の60年後に居士の住んでいた同じ鶯谷(根岸)に、明確だが浅薄な「生と死」の空間が出現し、現在に至っているが、こちらには居士のような、<死>への絶叫は聞こえず、<生>の深淵も見えてこないのである(見えるのはデブ線女子がホテルに入っていく姿である)。ただ、きっと居士なら、この現在の根岸を見てこう言うだろう「これはこれでなかなか写生の価値はあるよ」と。
 最後に過去に私が<死>へと一歩踏み出そうとした時に、踏み留めてくれた居士の箴言をご紹介して、この稿を締めくくりたい。

 余は今まで禅宗のいはゆる悟りという事を誤解して居た。悟りという事は如何なる場合にも平気で死ねる事かと思って居たのは間違ひで、悟りという事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であった。

                         (六月二日)『病状六尺』