清掃夫は見た-?だけど、愛しき人々⑦

外資系高級ホテル編

第4章 人間なんてララーララララララー

 崔さんとのコンビがまたはじまったが、以前にもまして彼は働かなくなってきた。コンビでラウンジの清掃をしていても、途中で雲隠れしてしまい帰ってこない。
 帰ってくると眠そうな顔をしている。どうせどこかで潜んで寝ていたのであろう。そんなことが頻繁に起こるようになったのだが、清掃の仕事そのものでは問題は起こらなかったのだが……。
 朝仕事が終わり、ロッカー室で着替えていると、隣で崔さんが怪訝な顔をして携帯を覗いていた。崔さん突然、
「宮田サン、ヤッパリアイツ、オレの携帯ツカッテ大阪二デンワシテルヨ」
 何を言っているのか分からなかった私は
「アイツって誰」と言うと
「ホラ、ワタシノトナリノアイツ」
 よく私たちと朝一緒になるホテルの従業員の顔が思い浮かんだ。
「何で、崔さんの携帯なんか使うのよ」
「イヤ、ワタシ、ツカッテナイノニ、イツモ大阪ノ発信キロクがアルノヨ」
 私はそれだけで彼がなぜ崔さんの携帯を使ったことになるのか不可解だったので
「崔さん、完全な証拠掴むまで絶対にそんなこと相手に言っちゃダメだよ」
「絶対アイツだよ、アイツ」
「彼が崔さんの携帯使っているのを見たの」
「…………」
「もし使ってなかったら大変なことになるのだからね」
「ワタシワカルノ」
「勘とか思い込みで言っちゃダメだよ」
 そう言えば趙さんの時も似たようなこと言ったような…と急に趙さんの顔が浮かんだのである。
「とにかく、証拠を掴むまで、どんなアクションも起こしちゃダメだからね」と
強く言うと、崔さんは不満げな顔を浮かべ「デモ」と呟いたかと思うとそそくさと出ていった。

休憩の時間にウトウトしていると、高木さんが
「宮ちゃん、バルトがモンゴルで事故ったの知ってる」と言って近寄ってきた。
「事故ったって、どういうことよ」
「スピードの出し過ぎで、突然前から出てきた鹿を除けようとハンドル切り替えたらスリップして大木に突っ込んだらしいんだよ」
「命に別状はないらしいんだが、足がダメで車椅子生活だって」
 あの要領の良いバルトが半身不随と聞いたとたん自分が彼に抱いていた危うさの予感が当たってしまったのではないかと驚いてしまった。結果論かもしれないが、彼と一緒にいると、いつも<お前そんなに要領よく人生は進まないものだよ>と心の中に浮かんでいた。上手く説明できないが、必ずどこかで大きな挫折体験をするのではと思っていたが、それがこんなに早く、こんな形で舞い降りるとは神の残酷さを呪わざるをえなかった。
 後からエレドモに詳細を聞くと、バルトは運転に絶対の自信を持っていて、信じられないスピードを出すことが良くあり、事故になりそうなことが多々あったと言う。それをまたバルトのことだから上手く避けていたのだろう。そしてそれがより一層の自信を生んでしまったのではないか、やはり今回の事故は彼の過信と要領の良さが生み出したものではないかと、彼には悪いが変な納得の仕方をしている自分が怖かった。

スパフロアーは前述したように会員向けの小さなラウンジがあり、そこも毎日深夜、バキュームとテーブル拭きをするのだが、そこの隅に三坪ほどの小さな事務室があった。始めはバルトがそこの担当であったのだが、彼が帰国することになったので担当のチェンジがあり、私が任されるようになった。
 最初は小さな事務室なので5分もかからずに終わっていたのであるが、その時はたまたま事務室の四辺(まわり)を眺めると、壁に大きな肖像写真(ただのスナップの拡大写真だが)が3枚ほど教祖様の写真のように貼ってあった。何だろうと首を傾げて見ていると、一枚は見た時のある顔である。
 一回見ると忘れられないこの首がなくピグモン(ウルトラマンのに出てくる怪獣)にどことなく似ている男、そう大手出版社を辞め、独立して自ら出版社を起こし大成功したG社のK社長の肖像写真だった。私は小説を読むのが好きなのでG社の文芸書のいくつかを読んでいたので、K社長の顔には見覚えがあったが、そちらの方面に関心がない人にはK社長の顔など見ても分からないだろうと思うが、最近では自らの生きざまの本(結局自分が如何に凄い人間かを語っているだけ)を出したり、テレビにも顔を出しているので分かる人も増えてきているのではないだろうか。ただ肖像写真の下には、G社ではなくTというラグビーのルール用語のような名前になっていたが、「へーこんなところでも力があるんだと」妬みもあったが最初は少し奇妙に思いながらも感心しながらその写真を眺めていた。
 後の2枚の写真も下に会社名と名前があったが、さすがにG社と違って、聞いたときのない会社名と名前が並んでいた。
 何回かその小さな事務室を清掃していた時、たまたま、ほんとうにたまたま、棚に目をやると、ノートが見開きで置いてあった。ふっとそのノートの文面が目に入ってしまうと
K社長の名前が頻繁に書き連ねてある。好奇心にそそられつい本格的にそのノートの文面に目を通すと、「本日Kが来ます。危険」「Kがラウンジで携帯を使うので注意したら、逆に怒り出す」「K予約、注意」「問題あり、Y、S、K、上手くあしらうべし」とKが問題児のように扱われていた。このノート従業員のための引継ぎの報告書だった。その瞬間、この肖像写真の意味が私の頭の中で納得された。もう一度肖像写真が貼ってある壁に目を向けると、上に大きく「ATTENTION」と書いてある。それはスパ会員の要注意人物を従業員に分からせるために貼ってある、例えは悪いが手配写真のようなものだった。
 しかし、元気な人だなと感心するが、彼、創業当時は華々しく文芸の復興などと言って出てきたが、蓋をあけると売れればなんでもありになり、あげくの果てには高級スパで問題児になり、なんだかどこぞの田舎の出の芸能プロダクションの社長のように変身しだしたのは悲しい限りである。まあ彼も清掃夫にこんなことは言われたくないだろうが…。
 そう言えば、この社長「顰蹙は買ってまでしろ」などということを謳っていたが、こんなところでも「顰蹙を買っている」のかと思うと、皮肉だが逆になんだか可愛らしいなと感じなくもない。
 ここの会員制のスパは入会金400万円と庶民には目ん玉が飛び出るようなお値段だが、東京の夜景が一望できるプ―ル、サウナ、ジャグジー、エステ、トレーニングルームが格安(ぜんぜん安くはない、一般価格が高すぎるので)で利用でき、一般の人が出入りできないラウンジで飲食しながら寛げる。まさに人生の勝ち組が静かに優越感に浸れる場所としては打ってつけの空間であるのは確かなのだが、さすが厳しい社会を己の腕で勝ち抜いていた男女たちだけあって、ひと癖ふた癖・・・あるのは当然で、自信過剰、傲慢不遜な人間が多いのは否めない。その上、高い会費を払っているのだから、ワガママに振る舞いたくなる気持ち分かるのだが。何とまあ、大人げない恥ずかしい行為が横行するのもこういう場所柄だからなのである。一生清掃の仕事以外にはこんな場所に踏み込まないし、いや踏み込めない人間には、嫉妬(ねたみ)も含めてだが、何だかなという気持ちしか起らないのはなぜなのだろうか。

何だかなという話はまだある。麻薬で捕まり、落ちるとこまで落ちてしまった元プロ野球選手のKである。Kはこのホテルの常連で、22時の始業時間の深夜組がバックヤードで業務の打ち合わせの朝礼(22時でも朝礼という)をしていると、腕が太く筋肉質のデカい(この表現がピッタリくる)身体の男がその廊下を横切っていくことがあった。日本人の清掃員はすぐに、「ハッ」としてその男に気づく、横にいる同僚の腕を肘で軽く突いて「Kじゃん」と低声で呟く。その声をKは聞き逃さずこちらを振り向き、厳しい形相(心の中で舐めるなよという気持ちがこもっているのだろう)で睨み付けるのだった。
 あれほどの大きな男に睨みつけられると、ほんとうに「怖い」もので、皆震え上がっていたのを懐かしく思い出す。
 ちなみに、どこもそうだろうが、超有名人はホテルに入る時は、一般客とは違い特別の通用口を使い、部屋に入るのも従業員用の裏手廊下(バックヤード)から入るようになっている。
 私は勤続していた3年でKとは3回しか遇(あ)っていないが、いつもKの何分か先に、少し年配の細身の女性が入っていくのを目撃しているが、その女性、その時よく週刊誌で取りざたされていた年上の銀座のクラブママだったのではないだろうか。
 まだその頃は、まだ、Kが薬(ヤク)中になっているなどという噂は出ていなかったが、今から考えると、その頃はもう深く(ドップリ)覚せい剤セックスに嵌(ハマ)っていたのだろう。生涯獲得収入が50億円を越えるという大スターが、ほとんど一文なしで、逮捕されるのも周囲で見ている凡人たちには面白いし気慰みにはなるだろうが……。
 しかし、一時だが彼に比べば小銭だがお金が入り世間様には良い思いをしたなどと言われるが、すぐに急落し貧乏アルバイト生活に転落した身には、烏滸(おこ)がましいが、彼の現在の心境が分からなくもないと言っては生意気だろうか。
 ちなみ、誰の言葉だかは知らないが、名言を一つ「この世の中の不幸は二つしかない、お金のないことと、お金のあることである」、この名言はアルバイト清掃員の私たちとKには心に突き刺さる言葉のはずである。

  仕事が終わると崔さんとは、ロッカーが近いために隣合わせで馬鹿話をしていたが、先日の携帯のことも忘れたのか、犯人だと目星を付けた男も良く顔を合わせることがあったが、さすがに彼も自分の思い込みだと納得したのだろう何事もなく過ぎていった。
 ところが、納得するどころではなかったのである。とうとう崔さん行動に出てしまった(やっちまった)のである。
 ある日、崔さんより遅れてロッカー室へ入ると、彼が大きな高い声で怒鳴っている。
 「アナタ、イツモイツモ、ワタシの携帯ツカイ、大阪にデンワシテルデショ」とその男を詰め寄っている。
 その男はいきなりの言いがかりにただ茫然とその場に立ち尽くしていた。
 「ワタシミタネ、アナタガコノ携帯ツカッテイルノ」と語気を強め詰め寄った。
 「・・・・・・・」
 男は当然だろう、言葉も出ずにただただ困惑した顔付で彼を見詰めていた。
 私は、万事休す、とうとうやってしまったと宙を見上げた。
 彼は事のあらましが不可解なため少し思案している表情を浮かべたが、私が横にいるのに気づき、
 「伊藤さんまだいるかな、呼んできてくれない」と指示した。
 崔さんは、真っ赤な顔をして、
 「アナタ、ナゼ、ワタシノ携帯ムダンデツカウノ」と興奮し声を上げた。
 私はすぐに従業員控室に行き、あらましを簡単に伊藤に伝え、すぐにロッカー室にいくよう伝えた。
 さてこの事件、その後どうなったかはもうお分かりなのではないだろうか。
 まずその男は、早朝のフロアー支配人でありホテルの相当な地位にいる男で、その彼を崔さんが犯人呼ばわりしてしまったのだから、事はそう簡単に収まるはずはないのであった。
 まず警察が呼ばれ、崔さんは事のあらましを告げたが現行犯なら分かるが、何の証拠もないのだから分が悪いの当然である。そして支配人が彼の携帯を使って大阪に電話をする動機は万が一もないだろうということ、また使用したのを見たならなぜその時に犯行を見逃したのかと警察に問いかけられると答えることも出来ず、そこには「ゼッタイミタノヨ」としか言えない彼がいた。これには警察も頭を抱えたが、数日後犯人が特定された。誰あろうそれは崔さんの奥さんだったという笑うに笑えない結末を迎えたのだった。
 当然、崔さんは馘になりホテルの出入りも禁じられてしまった。
 驚いたことに、これだけ騒がせた張本人、ただの自分の思い込みだったことが分かったのに、一言も犯人呼ばわりされてしまった支配人に謝ることがなかったと、その後支配人に聞かされた。
 ただただ唖然としてしまう事件だったが、趙さんの時もそうだが、なぜ証拠を掴むことなく暴走してしまうのか。彼らの行為がどうにも不可解なのである。そして自分が間違ったことをしたのになぜ謝ることしないのか(中国人や大陸の人は簡単に謝ることをしないと言われるが…)。謝り癖が多い日本人も問題だが、ここまで間違いが分かっても頑なに謝らない彼らの心中がいかなるものなのか、逆に探ってみたくなるのであった。それでいて、日本の70年前の戦争行為に対しては、自分らの不利なことがあると、いまだに謝罪せよ謝罪せよと言ってくるこのお国柄はどうにも解せないのである。
崔、趙の中国人の異様な行為だけを語ってしまうと、日本人はそんなに正常なのかと問いかけられそうなので、いやちょっと手にを得ない日本人の話をしよう。
 後から入ってきたチャラそうな田辺という男だが、最初高木さんとコンビと組んだのだが人のよい彼も根をあげコンビ替えを班長に依頼。次に繁田さんとコンビを組むが、彼も二回目でギブアップ。そして次に私に回ってきたのだが…。
 まず、彼とのコンビは、グランドホールの清掃からはじまった。何度もグランドホールのバキューム(掃除機がけ)はやっているはずだが、まだやってはいけない後ろ向きのバキューム(掃除機を後ろにして、引っ張る)を平然とやり、注意すると「ゴメンナサイ」というのだが、2,3分すると、また言われてなかったように同じことをする。そして彼のバキューム後を辿っていくとゴミがバラバラと残っているのである。注意をすると「いや、僕やりましたよ」と平然としている。証拠に掃除後を辿らせて自覚させようとゴミ跡を確認させると、今度は「この天井に何かいますよ。ゴミをパラパラ落とさせている何かが」と真面目な顔で言うので、こちらも返答に困り、苦笑いしながら
「冗談でいってるの、舐めているんじゃないの」と声高に問い返すと
「いや、いるんですよ、何かが」とまたまじめに今度は天井を指さすのである。

 前半の仕事を終え、次の現場(レストラン)の待ち合わせ場所を確認し休憩に入ったのだが、休憩が終わり現場の待ち合わせ場所で待っていても一向に彼は現れない。首を傾けながら(オカシイ)なと思い、現場周囲を少し歩いていると、待ち合わせ場所とは遥か彼方(おおげさかな)で彼を発見。
「どうしたのよ」と声を掛けると、
 キョトンとした不思議な顔で私を見詰め
「何かあったんですか」と返答する。
 私はすかさず
「裏口で待ち合わせると約束しなかったけ」
「…………」
「約束したよね」
「いつですか」
「休憩前」
「…………」
「忘れたの」
「俺と宮田さんがですか、どこで」
「だから裏口のドアの後ろで」
「いつですか」
「休憩前」
 私、この漫才のボケとツッコミのような会話をこのまま永遠と続けなければならないかもしれないと危惧し、何もなかったように装い、彼と離れたが、彼とコンビを組んでいると、毎回このようなやり取りになるのであった。
「バキューム(掃除機)どこ置いた」
 「…………」
 「さっき使っていたでしょ」
 「……………」
 「それじゃ、この部屋の誰がバキュームかけたのよ」
 「俺です」
 「それじゃ、終わってバキュームどこへ置いたのよ」
 「……………」
 「四辺(まわり)探してもどこにもなかったよ」
 「倉庫に置きました」
 「それはじめに言えばいいじゃない」
 「いや、宮田さんのバキュームのことを聞いたのかと思って」
 「あの、バキュームはコンビで一台って決まっているでしょ」
 「……………」
 「また地下に取りに行くの」
 「スミマセン。終わったら倉庫に返すと聞いたもので」
 「それ清掃が終わったらのことで、まだ終わってないでしょ」
 「……………」

 彼はもう3か月目になるのに担当区域を憶えられないらしく、やらなくてもよいラウンジの清掃をしているので、
 「なぜそんなところやっているの、松永さんと岡島がやるところだから」
 「……………」
 「レストランをやるときは、ラウンジをやらないし、ラウンジをやるときはレストランをやらないでしょ」
 「ここはレストランですよね」
 「ここはラウンジ」
 「あ、暗くて分からなかったです」
 「嘘でしょ、そんなに暗くもないよ」
 「そうですかね」
 「それよりラウンジの担当の時は、レストランへは行かなかったよね」
 「……………」
 「それって分かっているんじゃないの」
 「……………」

 さすがに仕事をするたびにこんな会話をしなければならばくなると、こちらの神経も軽くだが異常をきたすようになり、最終的にはこちらがひょっとすると間違っているのかもしれないなどという疑心暗鬼にかられ、居ても立っても居られなくなり伊藤に相談した。
 伊藤は彼が母一人子一人の家庭で、母が認知症で彼が介護をしているとのこと。どうも何年も介護をしていると本人もオカシクなるらしく彼はその症状なのではないかという見解と、「発達障害」ではないかという繁田さんの見解、を話したが、私もさすがに自分のほうもどうにかなりそうなので担当コンビの変更を依頼した。最後に彼は「一流大学を出て、一流の企業に入ったんだが、さすがにこの症状が出て馘になったらしい」と伊藤は言って「もったいないよね」と一言呟いた。

 この仕事はシフト制で、前もって勤務日を申告し、それを班長の伊藤が調整し、勤務日が決定する。しかし、この田辺たまに勤務日を間違え,来ない日に来てしまったり、その逆もあり伊藤は頭を痛めていた。
 そして朝礼でのマンドラが些細な一言が、大きな波紋を呼んでしまうことになる。マンドラが昨日来る時に田辺を見たと口にしたので、皆(メンバー)、また勤務日間違えて引返したのだろうと笑っていた。
 翌日、大橋がつい田辺に「お前、昨日また間違えて来たんだって、マンドラが言ってたよ、下で会ったって」と口走ると、田辺は真っ赤な顔をして、マンドラに近寄って「俺がいつお前と会ったよ」とマンドラの胸倉を掴んでスゴんだ。マンドラは一瞬何が起こったのか怪訝な顔付になり彼の腕を払い除けた。田辺は「俺と昨日会った。嘘言うなよ」と今度はマンドラの顔を平手で叩いたので、マンドラもさすがに血が上り、腕で彼をヘッドロックをした。
 まずいと、皆が二人の喧嘩を止めに入ったが、さすがモンゴル人、強いこと強いこと、一瞬の内に田辺をボコボコにしてしまった。田辺は身動きひとつせず頭を抱えて倒れてしまった。
 マンドラは、喧嘩が強かっただけで、始めに手を出したのは田辺なのだから完全な被害者で、可哀そうに何でこんなことが起きたのか皆目検討が分からないまま震えていた。
 幸運なことは田辺はマンドラの一瞬の攻撃で倒れてしまい喧嘩は早々とホテルの従業員に気づかれることなく終わったことだった。伊藤はそのまま何もなかったことに出来たのだが、気が済まないのは田辺でダメージは少なかったのか、立ち上がり「俺が来るわけないだろう」と言ってその日は逃げるように帰っていった。
 翌日田辺は仕事を辞めると伊藤に電話を入れ、もう現場には顔出すことはなかった。しかし間違えて来てしまったことをマンドラに言われそんなに激怒する彼が分からなかった。度々出社日を間違えるのになぜその時だけ怒り狂ったのか、間違えに対する羞恥心がそんなに強かったのか、モンゴル人に言われたことに彼の自尊心が傷つけられたのか、何だか悲しい気持ちになるのである。要らぬお節介かもしれないが、彼みたいな人間が今後どのように生きていくのかの少し心配にはなるのであった。