外資系高級ホテル編
このホテルで働きはじめて1年が過ぎようとしていた。そして趙さんと三上の抜けた穴を埋めるのに、彼らが去って3か月後にやっと新メンバーが加わった。
朝礼で顔を合わせた二人は一人が中国人の崔さん、もう一人は40代だろうか、至って見た目普通の田辺という男だった。
あれだけ班長の伊藤が嫌っていた中国人がまた登場したのである。さすが人口13億を要する巨大国、そう簡単には目の前から消えさることはないと言うことか。
ここでまた蛇足だが、清掃業をやって10年で発見した、まだ誰も気づいていないだろう清掃文化論を語らせていただきたい。
清掃業をやって10年、色々な現場へいって、外国人労働者(ほぼアジア人だが)と出会った中で、お国柄とは、こんな所にも反映するのだなと思った体験からの文化論なのだが、これをもし本格的に研究すると非常に興味深い学術論文になるだろうと思うが誰か取りかかる人はいないものだろうか。
この10年に出会った外国人労働者は、中国人、モンゴル人、バングラディシュ人、ベトナム人と4か国のアジア、中東系だったが、あれ、と思わないだろうか……。察しの良い人はお気づきだろうが、そう、韓国、インド人がいないのである。インド人はともかく、お隣の韓国人がいないのは、偶々出会わなかっただけなのか、それとも、そこには何か理由があるのだろかと疑問に思ったのである。でもそこには理由があったのである。
まず、韓国人の場合、コンビニでアルバイトしている彼らは良く見かけるが、清掃アルバイトをしている人はほとんど見かけないのである(在日朝鮮、韓国人は別である)。そんな疑問が沸いたので親しい韓国人に聞いたところ、
「宮田さん、ソンナコトナゼヤッテルノシンジラレナイ。韓国人でソンナコトヤルノ、サイゴノサイゴ」と心配そうな顔付で答えるのだった。
確かに、日本でも、そんなに人に言える仕事ではないが、韓国ではそれこそ清掃の仕事など最底辺の人間がやることで、それこそドロップアウトした輩や家族から見放された人間が関わるそうで、アルバイトでも決してまともな人は携わらないらしい。そして会社と成立しているような清掃会社など今まで気にしていないので知らないだけだろうが、あるのかさえ分からない、と言うことだった。韓国ではそれほど清掃業というものの認識が乏しいらしい。
インド人の場合、これはもう、カースト制<バラモン(僧侶)、クシャトリヤ(王族、武族)、バイシャ(庶民)、スードラ(最低位庶民)>の中で動物の死体や汚物など穢らわしいものを扱う人間は、この階層にも入れないアンタッチャブル(不可触選民)に位置づけられ、働くために来日しても決して清掃業などには付かないのだろと思うのだが如何だろうか。ただイスラム教徒は余り清掃業に抵抗がないようにも感じる。
確かに日本でも3K職業で出来れば関わりたくない仕事であるだろう。だが日本人の場合、掃除をすることは何をおいても大事なことという古(いにしえ)からの習慣があるような気がする。それをする人を大変だなと思いこそすれ、汚(きたな)がったり、蔑(さげす)んだりするのは現実を認識する能力の足りない、苦労知らずの若者(あんちゃん)ぐらいなのではないか。
確かに職業としてそれをどう思うかは別であるが(清掃業が職業として成立しだしたのは、都会に大きなビルが立ち並ぶようになってからだろう)。
何が言いたいのかというと、これほど清掃をすることに蔑みの気持ちがあるということは、この2か国は習慣として、そもそも身の四辺(まわり)をキレイにするという認識に乏しいのではないかと、生活の中にその重要度がかなり低いのではないと思われるのである。そう考えると、韓国もインドも旅行で行ったが、国そのものに清潔感がなかったような感じがするが…読者の方はどう思われるだろうか。日本はかなり清潔感がある国と言っても良いだろう。分からないのは中国である。国として余り清潔感はないようだが(在日の中国人がやっている中華料理屋にそもそも清潔感がないのが多い)、この国の人々は清掃業に余り抵抗感はないみたいなのである。と言うか、この国、人間もそうだが何とも掴みどころのない国である(中国人にしてみれば日本を掴みどころのない国と思っているのだろうが)。ざっとアジアだけを中心とした簡単な清掃文化論を述べさせていただいたが、これを全世界的に各国比較してみるとかなり文化論としては面白いものになるのではないだろうか。
しかし、何とまあ~私は中国人と縁があるらしく、新人の崔さんと最初のコンビを組むことになってしまった。
二人は1階の小ルームを担当後、休憩後スパ施設の清掃をすることになった。
この崔さん、中国で指圧の先生だったが、競争が激しく、日本で指圧教室を開業しようと来日。中国系の鍼灸マッサージの店に入ったが、どうにもしっくりせずに辞めてここにアルバイトに来たと言う。人は良さそうなのだが少々暗めの性格で、そのため趙さんに比べると口数は少なく、はじめは真面目に丁寧に仕事をこなしていた。
私は、さすが人口13億、中国人でもその性格はそれぞれなのだなと、趙さんの顔を思い浮かべながら、崔さんの仕事を伺っていた。私はどうも中国人には好かれるみたいで、崔さんも趙さん同様親しげに何でも話しかけてくれるようになった。
2か月ぐらい一緒に働いて、気ごころも分かりだしてきたころだろうか、崔さんの化けの皮が剥がれたのだった。
スパ施設はプール、ロッカー、ジム施設、展望ジャグジーが付いたサウナ施設、エステ用マッサージ室が8室と会員用ラウンジがあった。
各施設バキュームと拭き掃除という何気ないものだったが、マッサージ室だけは困難を極める場所だった。1室6畳位の部屋にマッサージ台と横に小さな移動用化粧棚が設置されており、床はフローリングだった。もう一つ大きな特別ルームがあり、そこにはアベックで利用できるように、マッサージ台が2つ隣り合わせに並んでおり、奥に簡易なバスルームが付いたシャワー室が設置されていた。
このマッサージ室、普段は、3~4室が利用されるだけなのであるが、利用されてないところも誰かが出入りをしたかもしれないので完璧な清掃を要求された。厄介なのは、ここのマッサージのオプションに岩塩マッサージがあり、部屋全体に巻き散っている小粒の塩を膝間ついて取り除き、床を水拭きし、それこそ床をピカピカ、スベスベにしなけらならない作業があることだった。
崔さんとは、マッサージ室とその他の施設を交代で担当したのだが、その日は彼がマッサージ室の担当だった。普段は他の施設だけで精一杯で、マッサージ施設など足を踏み入れないのだが、偶々、崔さんに尋ねたいことがあって、マッサージ室に入ると、そこは廊下が薄明かりに照らされて、物音ひとつせず静寂さに包まれていた。崔さんはどこにいるのだろうかと一部屋一部屋ノックしてもどこにも見当たらなかった。
最後に一番奥にある特別ルームに向かい、ドアを開けようとした瞬間、何やら鼾のような音が聞こえてきた。マッサージルームには居なかったので、奥のシャーワー室に入ると、
今度は確かに大きな鼾が聞こえてきた。バスは白いレールカーテンが掛かっていたので、それを引きずると、驚いたことにバスの中で小さく包(うずく)まって寝ていたのであった。
私は大きな声で、
「崔さん、何やってるの」と身体を揺り動かした。
崔さん寝ぼけた顔をこちらに向け、目を開けると
「ネムクナッタノデ、ココデヨコニナッタノ」と悪びれる様子もなく言った。
「俺だったからよかったけど、マネージャーに見つかったら、即馘だよ」と強い調子で言うと、崔さん
「ダイジョウブ、ダイジョウブ」と言いながら腰を上げた。
何が大丈夫なのか、私に謝ってもしょうがないが、一言「ゴメン」ぐらい言ったらいいのに、彼はなかったことのようにして部屋を出ていった。
私は彼を追いかけて、「寝るなら見つからないようにしなければ駄目だよ、崔さん」と後ろから声をかけると、また「ダイジョウブ、ダイジョウブ」と手を上げた。
「大丈夫じゃなかったから、俺に見つかったんでしょう」と言うと
「宮田さんだから、ダイジョウブ、ダイジョウブ」とまた訳の分からないことを言う。私はいかりや長介のように(ダメだこりゃ)と心の中で呟き、壁に手を置いた。
集団で一年でも働いていると、相性はあるが、皆(メンバー)も気心が知れてきて、
仕事が終わると、その後時間的に余裕のある者は軽く飲んで帰るということも多くなり、嫌いな方でもない私も、皆と引っ掛けて帰ることが多々あった。
飲むと言っても仕事が終わるのは朝の6時、さすがに不夜城のこの都会も眠りにつこうという時で、場所は限られせいぜい24時間営業のチェーンラーメン店やファミリーレストランに入りビールなどを飲み、すぐ食事をして帰るのが関の山だった。
顔ぶれはその都度違うが、その日は年末も近く、そしてバトルが今年で仕事を辞めモンゴルへ帰国するので、送別会をかねた忘年会ということで比較的多く人が集まった。場所も大橋が見つけてきた、本格的な24時間営業の居酒屋で、もう今宵(朝だが)は腰を落ち着けて飲めと言わんばかりの空間だった。
その中に初めて、松永さん、田中も参加し、食事だけして日本語学校があるのでいつも帰るバルトを含めモンゴルの若い4人も酒を飲んでいた。
消防士あがりで、辞めると奥さんに三行半を喰らった高木さんが、宴の盛りあげるために、しょーもないシャレを交えながら元気に飲む、リストラを受け馘になり鍼灸学校に通っている繁田さんをいつもの様に揶揄(からか)っている。それをモンゴル人の4人が分かっているのかニヤニヤしながら聞いている。
元茨木県結城のヤンキー大橋がバルトに
「国に帰ったら何するの」といつものようにぶっきらぼうに尋ねた。
「親父が運送会社を経営しているので、そこ手伝うの」とバルトは流暢な日本語で答えた。
「やっぱりいいとこのボンボンなんだ」
「そんなことないよ俺なんか、エレドモの親父は政府のナンバー2だからね。でも子供はバカだから日本の大学にでも入れ箔をつけさせようとしているのに、こいつなかなか入れないのよ」とエレドモを指差ししたが、エレドモは分かっているのかいないのか、いつものように細い目を一層細くし、満面の笑みでビールを飲んでいた。
松永さんが
「若いのは皆どんな関係なの」と言いうと
バルトが
「三人とも近くに住んでいる幼馴染で高校までずーっと一緒なんだけどね」と言いながらポツリと「三人とも60キロぐらい離れたところ住んでいるけど」と口にすると、日本人はそれぞれ驚きの表情で「60キロ」と小さな驚き声を出した。
「60キロといったら東京と横浜ぐらいの距離だぞ」と繁田さんが言ったので、
「60キロって近いのか」と私は言葉の意味を確かめた。
モンゴルの4人は笑いながら近い近いとお互い顔を向けあい同意を求めていた。
「デモ、横浜ヘ仕事ヘイッテルケド、モンゴルよりトオイヨ」とマンドラは話の内容が分かっていたのかエルドモの方を見て言った。
「トオイ、トオイ」とエルドモも相槌を打った。
「変だよな」とバルトも少し首を傾けた。
蛇足だが、私は後からだが、その話を思い出し、距離についての概念の正当性を確認したのである。「距離は二つの出来事の間にあるのであって、二つの事物の間にあるのではないということを、故に空間とともに時間も含んでいる。距離は本質的には因果概念である」ということを高名な科学者が言っていたが、横浜と東京の距離のほうが、彼らのモンゴルの60キロの間の距離より、出来事(建物や色々な粗雑物が多い)が詰まっているので、横浜と東京の方が時間が長く感じ、遠く感じるということなのでではないだろうか。
「お前何年日本にいたの」と繁田さんが聞くと
「19の時にきたから8年だね」とバルトは言った。
横から高木さんが
「そんなに日本語が出来きて、仕事が出来るのだから日本とモンゴルのために何かすればいいのに」といつになく真面目な顔で言った。
「何かやりたいと思っているけどね。」と目の前に日本人なのかモンゴル人なのか区別がつかない男が揚げ物を半分食べた後、中身が何だろうと探るようにそれを見詰めながら言った。
繁田さんが
「お前、大橋より絶対、日本語のボキャブラリー多いと思うよ」と言うと
大橋が
「ひでえな」と少し傷ついたのか悲しげな顔をした。日本人は頷いて皆大笑いした。それにつられてモンゴル人も笑った。
「お前らに笑われる筋合いはねえ」と大橋はモンゴル人に言葉を投げ捨てた。
段々酒も回ってくると宴もたけなわになり、高木さんが今度来た崔について
「しかし、崔は趙の小型版だな、なんで中国人は皆あ~なんだよ」と崔さんの話に火をつけた
「繁田さん、崔に指圧教えてもらえばいいじゃない、本場なんだから」と田中が冗談でなく真面目に言うので、
「何で、あんなインチキ指圧師に教えを乞わなければならないんだよ」と少し怒りを込めた口ぶりを田中に向けた。
「バカいえ、あいつ指圧上手いだよ、俺はアイツの治療受けたから分かるんだけど」と今度は高木さんが冗談交じりに言った。
「どこでよ」と私が言うと
「スパのマッサージ室でね」と悪ぶれもせず高木さんは言った。
「大丈夫、見つかったら馘だよ」
「大丈夫大丈夫」と高木さんは笑っている。
「何だかなー」と私は呆れて言うと、
田中があり得ないことを聞いたように目を見開いていた。
今まで、余り話に参加してなかった岡島が赤ら顔しながら
「みんな中国人、中国人って酷いこと言うけど、日本人だって酷いのはいるんだし、ちゃんとした中国の人たちに失礼じゃない」と声を荒げた。
「そりゃちゃんとした人もいるかもしれないが、出会った中国人が皆似ているから、どうしようもなく言ってしまうだけでね。皆とは思ってないよ」と私は釈明するように言った。
「やっぱり、彼らだって大変な思いをして日本に働きに来ているだから、余り酷く言わなほうがいいよ」と気持ち悪いほど大真面目にヒューマンなことを言うので、場が少し白けだしつつあった。
「岡島さんは、まだ崔さんと一緒に働いてないでしょう」と荻野が言った。
「ないけどね」
「今まで中国人と一緒に働いたことはあるの」
「ないよ」
「それじゃ、分からないよ」と繁田さんが口を挟んだ。
「僕は、しかし、彼らを尊重しながら、彼らの言い分を良く聞いて行動するつもりだよ」
「向こうがあなたを尊重しなかったらどうするのよ」と私が問いかけると
「そりゃしょうがないよ。僕が悪いんでしょう」とウーロンハイに口を付けた。
「早く崔と一緒に働けるといいね」と私は皮肉まじりに言いながら微笑んだ。
昼になり、場も酔っ払いたちで収集がつかなくなり、高木が最後にバルトへの餞(はなむけ)の言葉を述べ、散会になった。私は酔いながらも、田中と一緒の電車で帰るのが嫌だったので、いつもの帰る方向とは逆の方向へ足を進めた。田中がその行為を何やら不審げに見詰めていたたが、私は彼を無視して足早にあらぬ方向に歩いた。