令和2(2020)年4月28日暁方にこの原稿を書き始めているところである。
昨日の東京コロナ感染者数が39人。この数日よりかなり減少「緊急事態」宣言が功を奏した気配が伺えるが、マスコミはまだまだ油断は禁物、皆さん「ステイホーム」ですよと注意を喚起している。
果たして今後の動向は如何にと、そんなの誰もわかりゃしないなと呟いている自分がいる。 3月中旬頃より現在までほとんど外出はしていない(銭湯とコンビニに買い物に行くぐらい)。アウトドア派ではなく、書斎派、いやそんな格好良くないオタクの私でも流石(さすが)にこの状態に飽きてきた。家に籠るのに飽きたのではなく、日がな一日同じ空間の中で繰り返される出来事に飽きてきたようである。仕事などで外に出れば、そんなに大した事もないが、小さな偶然にぶつかる機会があるもので、人はそんな些細なことで凡庸な日常に彩をつけているような気がする。それよりもあまり長く巣籠りしいると、巣に強い<気>が宿るのを感じる。その<気>が陰なのか陽なのか、<活気>でないことは確かなようだ。しかし素直?な私はじっと我慢、小さな部屋の壁を見つめ続けているのである。
私の<非常事態>の自粛生活はこんなものであるが、こんな中にも興味深いことはあるもので、その一つが現在まざまざと人の<本性>や<思考の限界>が露呈されることである。さすがにそれを目にすると、思想的に怠惰な私でも、心に引っかかり<澱>のようなものが残るのである。
人の<本性>は、安寧な<日常>よりも、パニック状態の<非日常>で出てくると言われるが、現在がまさにその瞬間に立ち会っているようである。
その中でも、一番驚いたのはテレビのコメンテーターたちの発言である(普段ワイドショーを観ないが巣篭りの影響でつい観てしまう)。特に普段リベラル(日本のリベラルは全然リベラルとは思わないが)で民主主義的だと思われている?いや自分でもそう思っている諸々(評論家やジャーナリスト)の識者たちの、「政府、首相はもっとリーダーシップを持って、早く決断してくれ」発言にはさすがにひっくり返ってしまたのである。それも、今まで「安倍の強権を許すな」「権力の横暴を許すな」と国家、政府の権力を根こそぎ骨に抜きにするのに邁進していた輩が、<非常時>になると、恥ずかしげもなく急に「もっと政府・首相に強くなって欲しい」などとドヤ顔で発言している。
以前「僕は戦争に結び付くことは断固反対する」といつもの不貞腐れた顔で言っていたTなるテレビ局社員解説者は、統率者のように医療機関の戦闘員たちを煽ったりしている。それも「命を守る」という金科玉条の言葉を添えながらである。新型コロナとの闘いが戦争ならば、まさに「命を守る」ためなら戦争も辞さないと言っているようにしか私には聞こえなかったのである。そして、そう言った発言をする輩たちの少なからず「護憲派」であったりするのに唖然としてしまうのである。まさに<正体>見たりである。
私は安倍首相のシンパではないが、今回彼はすごく民主主義的(様々な意見を掬い上げようとすると、決断が遅くなるのは無理からぬことだろう)だと思う(アベのマスクのような頓馬な企画を採用してしまうのもまさに民主主義的-公明党員か創価学会員かの小さな会社にマスクの発注をしてしまうなどは無惨としか言えない馬鹿さ加減だが、これも民主主義的である。ロシヤや中国では絶対こんなバレ方はしないだろう)。その民主主義的な安倍首相を批判し、早急な決断をと、あたかも独裁者を望んでいるように、その緩い安倍首相・政府を批判するリベラルと称する人々が私にはさっぱり理解できないのである。
かつてドイツの政治学者カール・シュミットは「主権とは例外状況(非常事態)にかんして決断を下すもので、主権者の下で秩序が形成され、法律が作られることが望ましい、それを確実なものとする制度が独裁制であり、独裁とデモクラシーは、必ずしも矛盾するものでない。デモクラシーは、統治者と被治者との同一性は仮定(みなし)の上に成立していて、国民が十分な教養水準に達していないような場合には、デモクラシーを守るために独裁が必要になる可能性があると」と述べている。
それでは、現在の日本の主権者(決断者)は誰なのであろうか。国民(日本国憲法)なの?
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