明治神宮考②-人工で出現した「永遠(自然)の杜」という奇妙な矛盾空間
明治神宮を訪れてかたは、明治神宮本体の建造物よりも、その建造物を囲む森林に驚かされるのではないだろうか。そして、ほとんどの人は、この自然林を切り開き神宮を創建したのだろうと思い、参拝を終え帰っていくのではないだろうか。私もそのように思っていた一人である。実はこの森は、明治神宮が創建されると同時に作られた人工の森で、100年ほどで、あたかも自然の森らしく変貌したものなのである。矛盾した言い方だが、自然の成長力たるものは凄いものである(後に矛盾説明)。
前回①で先述した通り、この土地は代々木御料地(江戸時代は井伊家下屋敷)で、木々も生い茂ることもない原野のような土地だったのだが、明治神宮をこの地の定めると同時に、さてこの土地を御霊(みたま)を鎮めるために風致な場にしなければならないと、様々なプランが提出された。
はじめは伊勢神宮や春日大社のように、杉・檜・赤松などの針葉樹林を植えることが計画されたが、気候的に合わないのと、近隣からの煙害があるため、それを断念する。そこで計画されたのが、造園学者の本多静六、本郷高徳、上原敬二らの『明治神宮内苑境内林苑計画』で、その内容は100年(大正9年<1920>年当時)かけて(まさに現在が到達地点)樫・椎・楠などの常緑広葉樹を中心として、極相林(きょくそうりん)(日照・気温・湿度等の自然環境に適応できない樹木の淘汰がすすみ、やがて生育に適した植物のみが層位<高木・亜高木・低木・草本>ごとに定着し、長期的に安定した森林のこと)による「永遠の杜」を作るという計画である。そして、この計画が発表されると、全国から献上木が送られ(満州、台湾、朝鮮からも10万本)、計画が実行されることになった。そこは、人が手を加えない自然法則にまかせた領域なので、人が立ち入ることができない。まさに人工で進められた<自然の杜>計画なのである。その計画が成功したか、失敗したか、神宮の周囲には樫・椎からなる極相林が広がるのを、<今ここで>私たちは確認できるのだが、創建から100年、大都会の一角に自然に囲まれた壮大な霊域が出現したのは確かなのである。調査では、珍種や絶滅危惧種の生物が豊富に生育しているらしいが、見た目は計画が成功したような気もするが、現在、人が永遠に手を入れないことに疑問符を投げかけている研究者もいる。
『明治神宮境内林苑計画』では目指す森は「永久に荘厳神聖なる林相」と書かれている。人為的に手をかけなくても永遠に続く森を目指すということだ。それから100年まさに、不毛な原野がそのよう極相林になったわけだが、しかし極相林では樹種が限定され林床は貧弱になり、生物種も減少するという。神社林が極相林となっている例は多いが多様性が貧しい森となっているそうだ。本多静六も人為的に遷移をコントロールする事で多様性のある森を維持しなくてはいけないと言っていたそうだが、明治神宮は人為的なコントロールしない「永遠の杜」を目指しているわけであるから、少し矛盾するわけである。
「永久的に安定した森などはない。極相林は永久に安定するといった事を教えているのは日本だけ」、「街中に鎮守の森と称して手つかずの森などをつくってはいけない。藪に覆われ山火事の危険がある。」と、自然のままに任せれば美しい多様性のある森が出来ると考えるのは明らかに間違えだそうだ。林相が単純化し鬱蒼と生い茂り人を寄せ付けない森になる。この状態が自然の状態であるので最も美しいのだという考えもあるが、大都市の生活圏であれば安全、防犯上の問題がでてきて当然なのである。
「自然のままに」というのは魅力的な耳障りのよい言葉であるが、人と共生するためには、何らかな人為的なコントロールが必要だというのにも説得力があるのである。大隈重信は神宮造営時に日光の杉林をイメージし「藪などつくるな」と言ったらしいが、最近の外苑の伐採計画反対者もこの辺を考慮にいれずに、ただ単に「自然のままに」ではダメなようである(切りすぎもどうかだが)。「永久に荘厳神聖なる林相」は幻想なのかもしれないが、何もない原野が、自然の杜の霊域として現出し、100年でゆるぎなき姿で私たち前に実存しているのは確かなのである。
さて100年前の目標は達成された感があるが、今後、新宿と渋谷という大喧噪地帯に挟まれているだけに、これからの「杜」の維持には、多くの困難と労苦が待ち構えていることだろう。これを維持するためには、私たち一人ひとりが意識的にこの都会の最大霊域を守っていこうという気持ちが重要なのではないかと思う。
それでは、今までは神宮の内苑の話であるが、ご存じのように神宮には外苑があり、外苑も神宮の一部であり、神宮創建では絶対不可欠な空間だったしうだ。明治神宮は伊勢神宮を模倣したので、内宮と外宮が内苑と外苑に当たるのではと言う人がいるが、これも中らずと雖も遠からずなのであるが、そもそも、内苑と外苑は宮城(皇居)で使われていた概念で、この時点では、外苑は「離宮・庭園」の言い換えでもあった。ただ、プロジェクトが進むと同時に、内宮と外宮と同似なイメージが浮かんだことはあるだろう。もうひとつには、この土地は大博覧会を催す土地として存在したのだが、この博覧会が財政難で困難になったと同時に、明治天皇が崩御したために、その土地に神宮にという案が浮上したそうである。また、当時神宮創建を反対する者も現れ、彼らは神宮よりも、記念事業をというものが多く、その批判をかわすために記念事業を行う場として外苑の発想が功を奏し、批判封じ込めに利用することもできたという。ともかくも神宮計画プロジェクトの「覚書」には、冒頭から決定事項のように、神宮は内苑と外苑からなると示され、内苑は国費で、外苑は献費で造営すると定められ、結果、内苑は代々木の御料地に国費で、外苑は青山練兵場に献費(国民からの寄付)で作られたのであった。私たちは現在、その当時の創建プロジェクトの計画設計が連続し、現実化し、立ち上がった姿をまざまざと見ているわけだが、現在進行中の都市開発プロジェクト(ただ、高層ビルを建て、資本まかせのテナントを置き、横文字誤魔化す)と比べると、立ち上がったものが壮大で中身の深さに圧倒されるばかりなのである。
さて、次回は、実際に明治神宮に参拝、外苑をプラプラと散歩し、計画して100年経った2024年の<今ここで>の内苑・外苑をレポートしたいと思う。