子規庵内部 正岡子規(居士)
鶯の ねぐらやぬれんくれ竹の 根岸の里に春雨ぞふる
瓶にさす 藤の花ぶさみじかければ たたみの上にとどかざりけり
根岸を語るには、まずこの人を語らなければ話にならないだろう。
この人とは正岡子規(以下子規居士)である。子規居士については私などが語らなくても、もうすでに多くの偉人が語り綴ってきたので、何を今更という感が否めないが、ところが居士、案外名前だけは衆知されているが、その偉大性は余り知られてないような気がするので、これを機会に私の子規感を記したいと思うのである。
私も50歳までは、正岡子規など「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」の作者という、古臭い写生俳人という知識しかなく、なぜ、この人が、歴史(倫理社会?)の教科書に彼の横顔の写真とともに、必ず先頭に表れるのか疑問に思いながらもスルーしたまま、ズーット関心の外の人でしかなかったのである。しかし、根岸に住みだして、さすがに子規庵などを訪れ、少し意識が彼のほうに向き出してから、彼の世界に集中的に入る機会を与えられ、その<どえりゃ>さに驚愕してしまったのである。
根岸の街は子規と中村不折(画家・書道家)が住んでいたためか、俳句と書道の街を謳い文句にしており、2丁目界隈には子規の俳句が塀や壁に多く貼ってある。
子規の俳句や短歌は、いくつか良いなと思うものはあるが、山本健吉※1が言うように、よくぞここまで多くの駄句を生産したものだという意見に、ある種肯かざるをえないのだが、子規居士の句だというと、あら不思議、何だか駄句が駄句に思われなくなるのも確かなのである(やはり俳句は第二芸術※2なのか)。しかし、それは、近代俳句の父であり、俳句革新運動の先導者であったからなどということでなく、彼の生きざまを眺めると、「こりゃ、只者ではない」とただただ茫然と立ちすくすしかないことが、その由来のように思うのである。
衆知のように彼は、結核から脊椎カリエスを誘発し、34歳の若さで惜しまれつつこの世を去ったが、その34年間の生涯の濃度の濃さは、ただ時間だけ長くなった、現在の我々の詰まらない薄口の生涯との対照をまざまざと我々に突き出して見せているように思えてならない。
晩年を過ごした、この根岸の家(子規庵)には高浜虚子、河東碧梧桐、伊藤左千夫、長塚節、岡麓、の弟子たちを筆頭に、漱石、寺田寅彦等今から眺めると錚錚たる顔ぶれが訪れている。子規は親分肌で、常に自分が先頭にあるという意識と思い込みが強すぎるきらいがあったらしいが、私はむしろ教祖的なオーラがあった人なのではと思うのである。ところが、ほんまものの教祖になるのには、如何せん当然ながら身体的パワーが欠けていて、健康ならば、その後、もっと大きな俳句組織を作り、全国に多くの弟子(信者)を集まっていたことであろう。
私がなぜ教祖的かと申すと、大岡信※3も居士の俳句、短歌批評を読むと、間違っているのだが、子規居士が言うと間違っていないように感じるのはなぜなんだろうと語っていたが、まさに、そこに子規居士の教祖的な資質が現れ出ているような気がしてならない。
私も蕪村よりも芭蕉の俳句のほうがどう考えても上だろうと思うのだが、居士は平然と蕪村の「五月雨や大河の前に家二軒」を出してきて、どうだ、お前ら芭蕉の句よりまさに絵画を見るような句ですごいだろと、蕪村を上にあげるのである。私など素人は、ひょっとして、蕪村の句の方が良いのかな、などとつい首を傾げて、また芭蕉の句を読み直してみる、そして居士、やっぱり芭蕉のほうが上でしょうなどと呟いている私がいる。『古今集』しかり、ここまでボロクソに虚仮降ろし『万葉』に帰れ!などと言わなくても、と思ってしまうのであるが、ついその口調の面白みに惹きこまれてしまい、ひょっとしたら正しいのかもしれないと、危うくマインドコントロールされそうになるのである。
子規に感化を受け、悪く言えば、どれだけ多く才能のない民が、ろくでもない<そのまんま俳句>を生産してしまったことか。良く言えば、<俳句という芸>の興趣とは何かを考えさてくれたとも言えるが…。しかし、子規居士の精神に惹きこまれると、そんなものはどうでもよくなるのである。私がまず惹きこまれたのは、居士が日記で「東京の食べ物はどれも、西に比べるとたいしたことはないが、醤油と味噌は断然に旨い」と何でもない俗ぽい話だが、語っていたことに敏感に反応してしまったとがはじめかもしれない。さすが健啖家の居士らしい一言なのである。これは、現在の東京の醤油・味噌文化と関西の塩文化を考える時に最高に貴重な一言を残してくれたのである。何故に今でも関西では醤油が毛嫌いされるのかということの<ほんとうの>エビデンス(証明)がここにあるのである。興味のない人にはツマラナイだろうが、そんなことを書いてくれた表現者は後にも先も子規居士だけなのである。(つづく)
子規がいて、不折いて、三平おりし根岸かな(丙午)
※1 山本 健吉(やまもと けんきち)
1907(明治40)年ー1988(昭和63)年長崎生まれ、文芸評論家。俳句批評から、古典、現代文学まで幅広い評論活動を展開。個性と伝統の問題にせまる独自の批評を確立した。実作者=批評家という俳句・短歌の批評世界で、実作をしない批評家としても有名だった。文化勲章受章。
※2 第二芸術
岩波書店の雑誌『世界』1946年11月号に掲載された桑原武夫の論文。同年に同論文を表題作とする評論集(岩波書店刊)に収録された。俳句という形式は現代の人生を表しえないなどとして、俳句を「第二芸術」として他の芸術と区別するべきと論じたものであり、当時の俳壇に大きな論争を引き起こした(第二芸術論争)。この論文では桑原はまず作者名を伏せたうえで、大家の作品のなかに無名の作者のものを混ぜた15の俳句作品を並べ、作品からは素人と大家の優劣をつけることができないとする。ここから俳句においては大家の価値はその党派性によって決められるものであるとして批判し、また近代化している現実の人生はもはや俳句という形式には盛り込みえず、「老人や病人が余技とし、消閑の具とするにふさわしい」ものとして、強いて芸術の名を使うのであれば「第二芸術」として区別し、学校教育からは締め出すべきだという結論を導き出している(ウイキペディアより)
※3 大岡 信
大岡 信(おおおか まこと)1931(昭和6)年-2017(平成29)年は、日本の詩人、評論家。東京芸術大学名誉教授。日本ペンクラブ元会長。
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