「小原庄助」タグアーカイブ

小原庄助考一幸福について

小原庄助さん、何で身上つぶした
朝寝、朝酒、朝湯が大好きで
それで身上つぶした
あ~もっともだ、もっともだ

 最近、相米慎二監督※0の日本映画ベスト3の中の一つに清水宏監督※1の『小原庄助さん』(『たそがれ酒場』<内田吐夢監督>『女が階段を上る時』<成瀬巳喜男監督>)をあげているのを知って興味を持ったので観たのだが、大変面白かった。
 今時、昭和24(1949)年制作のこのようなタイトルを持った映画を観る人は少ないだろうが、私の場合は、相米監督がベスト3にしていることと、民謡のフレーズだけに残っている謎の人物をどのように描くのかに興味を持ったためだけで、映画そのものには期待はしていなかったのであるが、観終わると逆に良い意味で裏切られた格好だった。この映画傑作なのである。
 まずこの映画、伝説の小原庄助さんを描いたのではなく、小原庄助さんのような生活をし、本人も庄助さんと冗談で名乗りながら、同じように身上をつぶしてしまう農村の名家の何代目かの底なしのお人好し男の生き様を描いている。
 最後は当然のごとく財産を食いつぶし、古くからいる女中の婆や(飯田蝶子)や奥さん(風見章子)もいなくなるという、まさに丸裸になり転落する男を時代劇の名優・大河内傅次郎が飄々と演じているのである。一見、ただの無様(ブザマ)な男のコメディーかなと思わせる。しかし、観て行くうちに良い意味での不思議な懐疑感がジワジワと押し寄せてくるのである。その懐疑とは、あれ「この男計算づくでは」と…。そして、最後の結末のシーンで、穿った見方をすれば、観る者に<生の希望>を抱かせると同時に、<幸福とは何か>という人類の普遍的な課題が頭に過(よぎ)るように仕組まれている深淵な映画なのである。
 監督の清水宏はよほどの邦画好きでないと現在では知る人は少ないだろうが、大正・昭和前半に活躍した映画監督で、戦前の松竹では筆頭監督であり、小津安二郎監督※2とはライバル関係であり終生の友であった。山中貞雄監督※3に「天才」と言わしめた大監督で、何故か小津・溝口健二※4・成瀬巳喜男※5などに比べると現在では知名度は低いが(何しろ性格がワガママで賛否両論がある人だったらしい)、日本映画を語る上では無くてはならぬ監督なのである。
 私はこの映画を観て、小原庄助の道徳的訓戒イメージに沿って話を進めながら、それを「幸福とは」という根源的テーマに移り変えていく手法の見事さもさることながら、それを微塵もあざとく見せることなく自然に描く、監督の手腕にまず感心したのである。
 そして、決して、財産やお金を持っているイコール幸福ではないという当たり前のことを、主人公は、自らの行為で声高に主張することなく、底なしのお人好と自堕落な習慣に徹することで証明していく。観る者には、主人公に近寄ってくる人間は子供以外皆狭小で不幸な輩(やから)に見えてくから不思議である。
 最後に当然のごとく主人公は丸裸になる。しかし、人は嘲り嘲笑するだろうが、実は庄助さんだけには<ほんとう>の希望の光が差し込まれてくるのを誰もが感じるのである。また最後のシーン(日本映画史上の最高のラストシーンもと言われている)で、そんな見捨てられた庄助さんは決して孤独ではなく、この世で一番幸福な人間なのだと了解させられるのである。その後の未来は困難な道のりになるだろうと考えさせるのだが、その再生は<生の喜び>に満ちたものになるのだろうとしか思えない何かをこの映画は感じさせてくれる。
 この映画、ひょっとすると当たり前だと思いこまされている社会規範の中での欲望追求が、逆にいかに希望を失わせているかを垣間見せてくれる。また驚くのは、囃子歌のフレーズが、時とともにこのように解釈され、広がりを見せてくれることに、人間の歴史もまんざらではないなと、生きるうえでのこの上にない幸福感にひたれる映画なのである。
 <今ここでの>私たちの一番の課題は、それぞれが生きる上で<幸福とは何か>を見つめ直すことのような気がする。百人百様の幸福観があるのは当然で、古(いにしえ)より続く永遠のテーマだろうが、もう一度、己の<幸福観>を見直すのに、この『小原庄助さん』は格好の映画であることは確かなように思う。どうぞご鑑賞あれ。

※0 相米慎二監督(そうまい しんじ)
1948年1月13日~2001年9月9日。岩手県盛岡市生まれ。
代表作品『翔んだカップル』(1980年)、『セーラー服と機関銃 』(1981年)、『ショベンン・ライダー』(1983年)、『魚影の群れ』(1983年)、『ラブホテル 』(1985年)、『台風クラブ 』(1985年)、『東京上空いらっしゃいませ』(1990年)、『風花 』(2001年)他

※1 清水宏監督(しみず ひろし)
1903年3月28日~1966年6月23日。静岡県出身。
大正・昭和期の映画監督。作為的な物語、セリフ、演技、演出を極力排除する実写的精神を大事にし、「役者なんかものをいう小道具」という言葉を残している。
代表作品『有りがたうさん』(1936年)、『風の中の子供』(1937年)『按摩と女』(1938年)、『蜂の巣の子供たち』、(1948年)。

※2 小津安二郎(おづ やすじろう)
1903年12月12日~1963年12月12日。東京都出身。
日本映画を代表する監督、約35年にわたるキャリアの中で、原節子主演の『晩春』(1949年)、『麦秋』(1951年)、『東京物語』(1953年)など54本の作品を監督。ロー・ポジションによる撮影や厳密な構図などが特徴的な「小津調」と呼ばれる独特の映像世界で、親子関係や家族の解体をテーマとする作品を撮り続けたことで知られ、黒澤明や溝口健二と並んで国際的に高く評価されている。

※3 山中貞雄監督(やまなか さだお)
1909年11月8日~1938年9月17日。京都府出身。
サイレント映画からトーキーへの移行期にあたる1930年代の日本映画を代表する監督のひとり。28歳の若さで亡くなった天才監督として知られる。わずか5年間の監督キャリアで26本の時代劇映画(共同監督作品を含む)を発表。現存する作品は『丹下左膳余話 百萬両の壺』(1935年)、『河内山宗俊』(1936年)、『人情紙風船』(1937年)の3本。

※4 溝口健二(みぞぐち けんじ)
1898年5月16日~1956年8月24日)。東京都出身。
1920年代から1950年代にわたるキャリアの中で、『祇園の姉妹』(1936年)、『残菊物語』(1939年)、『西鶴一代女』(1952年)、『雨月物語』(1953年)、『山椒大夫』(1954年)など約90本の作品を監督した。

※5 成瀬巳喜男(なるせ みきお)
1905年8月20日~1969年7月2日)。東京都出身。
1920年に松竹蒲田撮影所 蒲田撮影所に入社。小道具係、助監督を経て1930年に『チャンバラ夫婦』で監督デビュー。最初はドタバタ喜劇を手がけていたが、1931年の『腰弁頑張れ』で注目を集める。『君と別れて』、『夜ごとの夢』といった作品で頭角を現すようになる。監督作品『浮雲』、『山の音』『めし』『流れる』『女が階段を上る時』他

投稿記事