「溶けて流れて」カテゴリーアーカイブ

清掃夫は見た-?だけど、愛しき人々④

外資系高級ホテル編

第2章 懐かしき日本人

 休憩時間にロンドンオリンピックの試合を観戦している時だった。隣でモンゴル人のエレドモが一人でニヤニヤ笑っていた。それを見た私は
「何がオカシイんだよ」と突っ込みをいれると、
「日本人、いつもスゴイ選手と宣伝はするんだけど、すぐま負けちゃうんだよね、おかしくて」とまた切れ長の目を綻(ほころ)ばして言う。
「お前、いつもそう思っているの」
「マスコミはいつもスゴイスゴイと宣伝するけど、大したことないのおおいよね」とまた笑った。
 私は、余りスポーツには関心はなかったが、その時のエレドモの一言は妙に気になり、
「いつもそんな風に感じているの」と問いただした。
「それで、負けると、こんどはその選手無視するのね」
確かに、日本人の上げ下げの極端さは異常なように感じていたので、モンゴル人に改めて指摘されると頷かざるをえないのは確かだった。エレドモの横でマンドラもそれを聞きながら笑っていた。
 この二人、まだ20歳で、日本語学校へ通っている。モンゴル人は皆、バルト(後述するが日本人より日本語が上手く、要領のいい男)に誘われて、ここでバイトをしていた。エレドモとマンドラは小学校時代の親友で、近くに住んでいると言う(近くと言っても60キロの距離はあるそうだ)。日本人はモンゴルと言うと大草原でゲル生活している遊牧人とうイメージが強いが、それらのイメージの遊牧民や相撲のモンゴル人は外モンゴルで、彼らは内モンゴル(中国の自治区)出身である。生活習慣は中国人に近いのである。
 エレドモもマンドラもバルトも黙っていると、昔の日本人の田舎の子といってもそのまま通ってしまうほど日本人に似ている。そして彼らを見ていると、日本人は蒙古斑が尻に出るように、遠い昔の出所(でどころ)は共通なのだなと確信を持つようになるから面白い。
 司馬遼太郎が、かつてモンゴルの草原の地平線を見て「日本人が見た原初の風景が広がっているのを身体で感じる」と言ったように、彼らを見ていると、私もこの原初の風景を見に草原に行ってみたいものだという気持ちになるから不思議である。
 また、舞踏家の土方巽が言っていた下向するアジア人、古き良き時代の日本人がそこにいるように感じる。最近の若い日本人にはみられなくなった骨っぽく、ずんぐりもっくりだがが、腰高でなく、全体の重心が下に向かっているような、まさに地に足が付いているひと昔前の日本人が現前しているのである。総称すれば骨っぽい若者たちなのである。
 そして、素朴(ほんとうは案外計算高いのだが)で寡黙で、余計なことを口にせず、何を考えているか分からいと言われればそうなのだが、口に出すよりも、じっと相手の行動を伺っているところは、まさに日本人そのものである。
 先日の趙さんが、中国人の典型(これも後述するが、なぜ典型というかというと、次に入ってきた崔さんもまた趙さんと同じような人)であるならば、真逆な人間がモンゴル人のような気がする。
一度、バルトに
「中国人のことどう思っているの」と質問すると
「あまり好きではないけど、モンゴルでは言わないよ、怖いから」と小声で答えが返ってきた。
「同じ血筋なんだから、日本とモンゴルで中国を挟み撃ちにするのが一番なんじゃない」と言うと、バルトは大笑いをしていた。

 先ほど少し述べたが、このバルト、スゴイ要領の良い男で、この要領の良さで班長の伊藤に絶大なる信頼を得ていた。モンゴル人がこの現場に多いのもバルトが連れてくれば伊藤が断れないからである。
 彼はこの場をどうしたらいいかをちゃんと把握してから行動に出るところは、私も感心し、大いに参考にさせてもらった。<仕掛け棒>などはどこに置いてあるかなどは明らかにお見通しだった。
 そして、余計な仕事は絶対にせず、重要箇所は徹底的なのだが、それ以外は見向きもしない。故にいつも時間が余るのだが、半分以上は休んでいるのである。ところが班長の伊藤が現場に顔を出すときは、さも一生懸命という姿を抜群の演技でやってのけるのである。一番滑稽なのは班長に、さも前向きな仕事をしているような質問をなげかけたり、提案をしたりする。
 「ここのサイドボードのガラスは、水拭きより乾拭きですよね」
 「ここのガラスケースの棚、ホコリ凄いのですが、ここやるんですか」
 伊藤は何でも自分に言葉を投げかけてくれるのが嬉しいらしく、
 「バルトみたいに、一生懸命やってくれると助かるよ」と笑いながら答えを返してきた。
 それを横目で、モンゴル人に騙される人の良い日本人を情けない思いで眺めている私がいたのだった。
 「宮田さん、会社側がやれと言ったこと以上のことやっちゃダメだよ。どんなに頑張っても時給は変わらないんだから。この仕事、人より能力があるなどと見せようとして一生懸命やるやつはバカだからね。そんなの人に迷惑かけるだけだって。会社側には思うつぼだけど、あいつはあれだけ出来るのになぜお前は出来ないのと、同じ時給でもっと仕事を押し付けるんだからね。出来ないやつは可哀想だし、一生懸命やって人より出来たって時給があがるなら別だけど、絶対あがらないんだからね。田中ってバカでしょう」何とも流暢な日本語で教訓を垂れるモンゴル人がそこにいた。ただ少し矛盾を感じたのは、伊藤にとってバルトは、このメンバーの中では一番秀でた奴なのである。
 私も考えていたことを、この25歳のモンゴル人に直接ズバリと言われるとさすがに立つ瀬はないが、彼は不謹慎なことを言っているようだが核心を付いているのである。しかし、まさに共産的な仕事は人より秀でてもいけないし、また人より劣っても駄目なのである。全てを平均でいくのが長続きする秘訣で、全てホドホドがベストなのである。会社もそれを望んでいるのである。秀でてしまう人間がでるのは、会社側も困るのである。時給仕事とは、<凡庸>で<ホドホド>の仕事のことなのである。
 しかし、朴訥で素朴な素振りを見せながら、思慮深いと、変に感心してしまったが(そう言えば、相撲の朝青龍も白鵬も案外計算高い男だったな)、ここで、バルトが田中の名前を出したのは笑ってしまった。田中という男、何のためなのか休憩時間も惜しんで仕事をするような男で、仕事が遅いわけではないのだか、誰よりも遅くまで仕事をし、仕事への一生懸命さをいつも誇っているような男なのだが、バルトのような男には理解不能の男なのであろう。私もこの男、何とも滑稽なので、いつも「いや、田中さんほど仕事に打ち込める人もいないよね」と皮肉交じりに言葉をかけるのだが、ニコニコしながら「ドンマイ、ドンマイ」とわけの分からない言葉が返ってくるのには苦笑せざるをえなかった。
 この男、出勤の時、地下鉄でよく出くわすのであるが、何やら資格お宅らしく、私から見るとしょーもない資格をぎょーさん取るのを目的にしている男なのである。
「こんなに資格取ってどうするんですか」と言うと
「資格を取ると色々とコミュニケーションできるでしょう」とまた理解不能なことを言う。本人マジで言っているのだが、この田中、根っから面白くない男で、それ以上に彼とコミュニケーションをとるとなぜか不快な気持ちになるのである。これは私が彼と相性が合わないのではなく、帰納法的にみても、誰もが感じる普遍的なものだと思う。そのため電車の中で彼がいると気づいても、本を読んでいるふりをして、彼が話しかけてくるのを極力避けるようになっていた。こういう悲しい男はどこにでもいるのが世の現実である。