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清掃夫は見た-?だけど、愛しき人々②

外資系高級ホテル編

第1章 ここぞ、ほんとうのグローバル

 始業のタイムカードを押そうと、清掃控え室のドアを開けると同僚の趙さんの甲高い声が聞こえてきた。
 「ワタシ、チャントヤッタヨ、ゼッタイニ、ゼッタイニ……」と何度も「ゼッタイニ」を繰り返している。
 班長の伊藤は苦り切った顔つきで、
 「でもね、趙さん、四つも棒が出てきているんだよ」と彼は仕掛棒を趙さんの前に突き出している。
 趙さん、少しマズイなという顔つきをしながらも口をとがらせて、
 「ヤッタヨ、ソレ、オカシイヨ」とまた反論している。
 「でも、これは事実だから」と困惑した顔をして伊藤は言う。
 「ゼッタイ、ダレカ…」と趙さん、さすがに、誰か自分を陥れようとしてやったんだよとは言えず、言葉を切った。
 「まあ、これから気をつけてよ、頼んだよ」と伊藤は皮肉っぽい顔つきで言った。伊藤もうこれ以上言っても、しゃーないと諦めて趙さんから目を逸らした。
 趙さん、自分の仕出かした過ちなのに、まだ不満気に「ゼッタイ」「ゼッタイ」と小さく呟いて控室出ていった。
 仕掛け棒とは、私たち清掃員にとっては嫌味な棒で、雇主のホテル側 が私たちがちゃんと仕事をしているかを試す小さなガラスの棒で、ところどころ清掃範囲にその棒をランダムに置いて(例えばソファー下、裏、テーブルの上、部屋の隅等)、落ち度ないかを管理するための棒なのである。手を抜かず仕事をしていればその棒がなくなっている。それがそのままあるということはいい加減な仕事をしていると判断されるわけである。清掃員が一番困るのは、真剣にやっていても見落としてしまうことはあるし、手を抜いても見落とさず済んでしまうことがあるもので、その辺はホテル側、あずかりしらないということなのである。逆に言えば棒のあるなしで仕事の<質>は何も問わないと、私たちにとってどんなに一生懸命やっても棒一つ置き忘れれば、いい加減な仕事ぶりだと判断されてしまうのが何とも痛いのである。
 まあ、4本も置き忘れるというのは、さすが中国人(失礼)、滅多にないので班長伊藤の苦渋も分かるのである。
 この趙さんロッカー室でも。まだ今度は「チガウヨ、チガウヨ」と何が違うのか悔しそうに呟いていたかと思うと、
「宮田サン ワタシヤラレタネ」と口を尖らせて言った。
「何をやられたの」と答えると
「三上ガ、ハンニンネ」と言った。
「何の犯人なの」
「三上ガ、オワッタトキ、ボウオイタンダヨ」と言った
 私は冗談で言っているのかと思ったが、趙さん真剣なのである。
「趙さん、そんなことあるわけないだろ」とさすがに怒って、少し声を張り上げた。
「ゼッタイネ、ゼッタイネ」また彼は「ゼッタイ」を繰り返した。
「趙さん、考えてみなよ三上がそんなことして、何の得になるの」
「イヤ、三上ダヨ、コレセイカイヨ、宮田サン」趙さんはあたかも推理小説の犯人が分かったので人に伝えたくてウズウズしているような顔付きでいった。呆れかえって「頼むから三上にそんなこと言っちゃダメだよ」という言葉しか出なかった。
 ところが、この趙さん、もうここで読者の方は展開がお分かりだろう。そう、彼は三上に直接問いただしてしまったから、さあ大変、結末は後ほど話しますがその前に、ここでは、私がどういう経緯でこのホテルで清掃業という世界に入ったか、またどのような仕事をし、どんな同僚がいるかを簡単に説明していた方が、後々の話が分かりやすので少し説明させていただく。

 私は、17年間、食品宣伝を専門とする広告会社を経営し、健康食品ブームに乗り順調に売り上げを伸ばし、この世の春を満喫している時もあったのだが、ある事件に巻き込まれ会社をたたまなければならなくなったのが、まずはこの清掃業に入るきっかけだった。
 いまさら、社長だった人間が、年齢(40代後半)もあるだろうが普通のサラリーマンに戻ることは簡単には出来ないだろし成る気もなかった。出来るならばとりあえずは簡単なアルバイトで日々の暮らしをやり過ごしながら再度業界復帰をなどと考えていた。
 ところが、世の中手っ取り早い仕事というと、単純な肉体労働しかないのが現実であり、物流の配送、建築労働、守衛さん、そして清掃業ぐらいが主たるもの。そしてどれもが東京では時間給1,000~1,300円が相場。だが人間切羽詰まると何でも出来るもので、そのほとんどを体験し一番長続きしたのが清掃の仕事だった。配送、建築労働はさすがに50を越えた歳になるとシンドイ中、清掃ぐらいの軽作業が年齢的にも身体に一番フィットしたのである。問題は心の問題である。仕事自体は言ってしまえば中学生でも出来る単純なもの。慣れれば何物でもない。だがどうしてこんなに見をやつしてしまったという気持ちが身体の動きを止めてしまうのである。自分は運搬の仕事するために、ゴミ集めをするために、この世に生まれてきたのか、大学まで出たのか、を考えると荒(すさ)んだ気持ちになるのは否めないのである。その気持ちを「これで終わりではない、ただのアルバイトである」という慰めの言葉(この言葉が己に潰しがきくかきかないかの瀬戸際の言葉なのである)でやり過ごし、日々何とかゴマカシゴマカシ暮らしていたというのがほんとうのところだろう。
 そんな現実の中の稼(しのぎ)のひとつが外資系超高級ホテルの清掃バイトであり、初めて清掃初体験の仕事であった。
 「外資系ホテルでのパブリック(公共施設)清掃員急募」というコピーに、21時から早朝6時まで、1時間休憩、実働8時間。時給1,300円。週3日以上、シフト制。交通費規定支給、制服貸与という募集内容だった。
 深夜仕事に引っかかりがあったが、この不景気だとめったにない時給に飛びついてしまったのがきっかけだった。
 五反田のメンテナンス会社で面接を受け、翌日には採用が決まり、その日にホテルへ行き、ホテル側のマネージャーに挨拶。三日後には初出勤だった。
 このホテル最近よくある複合ビルの一角にあり、ビルの地下1、2階、地上1、2階と45階から50階がホテルの占有階だった。
 地下2階の清掃控室で班長の伊藤に挨拶し、細かな仕事内容の説明を受けてから、45階まであがると、バックヤードの廊下にこれから同僚になる清掃員たちが屯(たむろ)していた。さすが外資系ホテル、ワールドワイド(さまざま)な顔付きの方々がいた。
 21時に朝礼がはじまり、伊藤が皆に私を紹介し、その日の担当場所とペアを組む名前(担当場所は2人でペアを組むのが原則)の報告があり、
「本日も一日、頑張りましょう」という伊藤の掛け声のもと、それぞれが担当場所に散らばっていった。
 はじめは研修のため班長の伊藤に付いて、それぞれのホテル内の施設を案内された。さすがに超高級ホテル、すべてにおいて重厚で高級感を漂わせている。特に45階ロビー前のラウンジは、天井が高く周囲が大きな窓に覆われ、東京の東西南北四方(すべて)が見渡せて、そこ自体が展望台になっている。丘の上の高層タワービルのため東京タワーが低く見えるということだけでも、いかにここの景色が絶景かの説明になるのではないだろうか。
 ちなみに、このラウンジのコーヒー代は1,200円(これにサービス料+税金を加えると1,500円)。しかしコーヒーが付いて、これだけの展望台に上れると思えば安いのかもしれない。
 ただ蛇足だが、毎日のようにここから外を眺めていると慣れというものは恐ろしいもので何の感動もなくなり、景色など見向きもしなくなるのである。私はこの体験で高いお金を出して高層マンションなどに住むものでないなということの認識できたのは良かったと思う(買うお金もないが)。
 また何よりも圧倒されたのがスパ施設のプール。さすがに25メートルプールとまではいかないが、縦15メートル横10メートルの大きさの室内プールが46階という高層階にある。ひょっとすると日本で一番高い位置にあるプールなのではないだろうか、それが三方ガラス張りの窓で覆われているのであるから何かを言わんかである。
ひと通り、担当施設の案内を終わり、いくつか注意事項を聞き、バキューム(掃除機)の使い方、ダスタ―(雑巾)の拭き方、フラワー(ホコリ取り)の際の注意、お客様への対応の仕方等を教わり研修は無事終わった。後に、他の清掃バイト(デパート、高級マンション、大学、オフィス)を経験して分かったのだが、清掃業で一番キツイのが高級マンション、その次がホテル清掃、それも高級ホテルはそれに輪をかけて厳しいのであった(当たり前だが宿泊料が高いのであるから清掃もより一層のクオリティーを要求される)。それは考えればすぐ分かることだが、ホテルは清潔なのが当たり前なのである。お客様に快適に宿泊してもらうために何よりも必要なものは清潔さである。故に、ホテル側はクリーニングには万全を期すのであり、極端かもしれないが綺麗か汚いかはホテルの生命線でもあるのだから当然である。そのような環境の中、清掃業者にもより厳しいワーキングを要求するのも仕方のないことなのかもしれない。 
 私は清掃業が初めてだったので、こんなものなのかと思うだけであったが、高級ホテルの髪の毛一本、指紋一つ、壁のほんの少しのホコリさえ許されない鉄壁な姿勢は当然のごとく報酬に見合わないかなりの負担を清掃員にしいているのであった。パブリック(ホテル内公共施設)でこれなのだから、客室清掃はそれ以上なのだろうなとその当時思ったものである(客室清掃をしている女性から客室清掃のさまざまな苦労を聞いた―後述)。

 現在(いま)、他の清掃を憶えてしまった私が、ホテルの清掃業をやるかと言えば、時給が少しばかり高いだけでは決してやらないだろう、特に高級ホテルと高級マンションは(今の倍の時給なら考えなくもないが)……。仕事はきつかろうが、楽だろうがアルバイトの時給は変わらないのである。それはまさに、働く者の能力、スキルなどはどうでもよい仕事であるという表れではないだろうか。ただ、始めに厳しい経験をしておかげで、その後の他の清掃が非常に楽であったのは、逆に言えばラッキーだったかもしれない。

 私の初仕事のペアは前述の中国の趙さんで、担当場所の前半は2階のホール前コリドール(廊下)で、休憩をはさみ、2時から45階のレストランフロワーにある寿司、天ぷら、鉄板焼き店の清掃だった。ペアの趙さん、人懐こいのはよいのだが、常に、私の側(そば)に近付いてきて喋りまくる。その内容のほとんどが、ここの清掃のやり方は間違っているということと、後は自分のことが主だった。彼は、10年前に中国の浙江省から来日。中華料理屋のコックとして働きながらもいくつかの店を転々しながらも、4年前に池袋に店を持ち繁盛していたが従業員に1年間に渡り使い込みをされていて、バカバカしくなって1年前に店を閉じ、奥さんはマッサージ師で、小学校2年生の娘が一人いること。私は趙さんと一緒に仕事をして、2日で趙さんの人となりを知ることとなる。
 この趙さん、自分の清掃スキルに絶対に自信があるらしく、常にこうあるべきだと、口では説明するのであるが、何せほとんど仕事らしいことはしないので、私には彼の技術の凄さは分からなかったというのが正直なところだった。ただ、中国社会の様々なことを教わったので、趙さんに出会えてよかったと思う。
「宮田さん、中国人ノ中華料理屋、ミンナ華僑ガシキッテイテ、開店スルトキハ、ウデノイイコックツレテキテ、キャクヲアツメルノヨ、ソイツハ開店サンカゲツデヤメ、マタ開店スルミセニイクノ、ダカラサンカゲツスルト、ソノミセマズクナルノヨ」
「中国セイフカラ認定サレテイルトカ、免許ガハッテアルオミセアルデショ。コックトカマッサージノヒト、アノ免許、ホトンドウソ、ジブンデツクッテイルノヨ」
 「中国人ファミリーガダイジ、タニンノコトナドナニモカンガエテナイネ」
 趙さんの言っていた一部を紹介したが、確かに、私の自宅の近くの華僑系中華料理屋、開店当初は、大変旨かったが、数か月後、味が確実に落ちていたが、彼の言うことはひょっとするとほんとうなのかもしれない。
 また、中国政府の認定免許証も中国人なら平気でそんなことはやりそうな気はするが、果たしてどうなのだろうか。
とにかく、この趙さん、悪口と否定的なこと、自分は如何に優れているかしか言わない人で、「アレ、ダメヨ」「ワカッテナイネ」「オ―マイゴット」が口癖の人だった。

 ここで、その当時一緒に働いている同僚たちを紹介しておこう。各国別には、日本人が10人、モンゴル人が4人、中国人が1人、バングラデッシュが1人という構成(あつまり)だった。外資系のサービス業は人員の3,4割は外国人を雇わなければいけないという義務(きまり)があるらしいと聞いたが確かなのかは定かではない。
 日本人の従業員は、NHKの受信料の徴収係とWワークをしている50代後半の班長の伊藤、消防士を55歳で辞め年金が出る60歳になると奥さんに三行半を受けてしまった63歳の高木、55歳で会社をリストラで首になりその退職金で鍼灸学校に通っている56歳の繁田、唐津で7年間陶芸家だったが、東京に戻ってきた40歳の荻野、個人経営で保険会社の代行の仕事をしていたがある時事務所に泥棒が入り、首を刺されて死の淵をさ迷ったという特殊体験を持つ60歳の松永、暴力沙汰で高校中退し職を転々としいる茨城訛りの35歳の大橋、会社で人事の仕事をしていたという資格マニヤの馬鹿真面目な田中、それから神経質、杓子定規でいかにも腹に何か一物をもっていそうで余りお近づきをしたくない40歳の三上、思想活動でもしていたのか変に左翼的で理屈っぽい38歳の岡島、と良くもまあこれだけ訳ありや脛に傷のありそうな人員が揃ったものである(一番脛に傷のあるのは私かもしれないが)。
 この輩たちが、これまた外国人労働者という自分たちとは習慣の違う人間と一緒に仕事をしていくのだから問題が起こらないわけがないのである。
 外国人と一緒に働くなどというのは私も初めてであった。実は国際的な世の中になったと言っても、ほんとうに国際的になっているのはこの外資系ホテルの清掃業やサービス、観光業のような世界で、ほとんどの日本の労働者は外国人と一緒に働くなどという機会は少ないのではないかと思う。日本の場合、日本語だけでマーケットが成立していける社会なので、そもそも日本語が出来る外国人以外は言葉の障壁があって、入り込む余地は少ないである。実際に仕事で外国人と接触している日本人など少ないのは当たり前なのである(商社等外国で飛び回ってるいる職種の人は別だろうが)。国際化、国際化と言っても何の国際化なのかナンジャラホイなのである。故に日本人は英語が出来ないなどと言われるが、出来なくても生きていけるのだし、必要性が少ないのだから身に着かないのは当たり前なのである。ただ、今後、これからの日本人は、外国に出て働かなければならなくなる時が来るかもしれない。  

 地下2階の従業員食堂は、24時の休憩時間になると、それぞれ従業員がお茶を飲んだり、空(す)き腹を軽くみたしたり、仮眠をとりに、と集まってくる。
ある、時壁にある大画面テレビを観ていると、深夜のバラエティー番組ではホモ(男色)の話題で番組が進行されていた。それを観たバングラデッシュのウラ君が
「日本人オカシイヨ、バングラデシュにコンナノイナイヨ」と小さな声で呟いた。
 よせばいいのにウラ、何度も何度も
「オカシイヨ、オカシイヨ、ニホンジン」と真剣な顔突つきで言い続けた。
 私たちは苦笑いしていたのだが、突然、陶芸家の荻野が
「お前のとこには、ほんとうにホモはいないんだな」とドスの効いた低い声で言った。
「ソンナノイルワケナイヨ」とまた今度はカナ切り声をあげた。
 荻野はとうとう切れて
「お前なホモセクシャルがいないなんて、嘘ついてるんじゃねー。アッラーの神がホモを禁止しても、自然にホモはあるんだよ、このボケ」と大きな声をあげた。
 それを聞いたウラは、
「そんなことない、バングラデシュはホモいないよ」とまた突っかかる。
 荻野は呆れ顔で、
「いたらどうするんだよ。お前、イスラム教改宗するか」
「日本人おかしいよ」
「おかしくないよ。お前がおかしいんだよ」と荻野は皆に同意をもとめるように言った。それを周囲で聞いていた者は、当たり前だが、我関せずの態度で苦笑いしているしかなかったのである。
 この問題、どちらが正しいとか正しくないとかいう問題ではないのである。スンニ派のイスラム教徒であるウラと日本人の荻野では、この後いくら言い合っても平行線であろう。荻野がバングラデシュのホモ(男色)を彼の前に連れてきても、彼は絶対に認めないだろ、というかその男色はもうイスラム教徒ではないのである。民族融和と言っても最後の最後では、宗教、教育、習慣、政治制度、文化など全てにおいて差異(ちがい)があるのだから、お互いが相手の中に入り融和するなどと言うのはそもそも困難なのである。等閑(なおざり)と見せかけの融和はできるだろうというのは皆心の中では理解しているのである。
 この二人、次には豚肉を食べる、食べないでやり合った後、もうほとんど会話することもなく、一人の日本人とバングラデシュ人の友好関係は終わってしまったのである(はじめから友好などはなかったが……)。
(つづく)