外資系高級ホテル編
さて、その後の趙さんの話に戻そう。その日、私と趙さんは45階のロビーラウンジの清掃をしていたのだが、
ロビーラウンジとその隣のバーは、平日は深夜1時で閉店、お客さまが完全に出はからった後から清掃がはじまるのだが、その日は金曜日、まだ帰らずに疎(まば)らにお客さが残っていたが、私は迷惑がかからないようにいつもより静かに仕事をしていた。まずは跪(ひざまつ)いてテーブルの脚を丹念拭きながら<仕掛け棒>がないかを探していた。ふっと立ち上がり趙さんの方を見ると、彼は誰かを発見したのか、じっとラウンジのバックヤードの入り口の方を見詰めていた。
突然、趙さん、そちらに駆け出していった。どうしたのだろうと、そちらの方角に目を凝らすと三上が入り口の扉の拭き掃除をしていた。二人は何か言い合ったかと思うと、趙さんが逃げるようにラウンジ横のレストランの方に駆けだ出していった。それを三上が小さな細身の身体で追いかける。趙さんの身体が馬鹿デカいので、まさにネズミが猫を追いかけているようだっが、私はヤバイと思い、すぐに三上を追いかけたが追いつかなかった。二人はホテル内を捕り物帖さながら追っかけっこした後、三上が従業員食堂でやっと趙さんを捕まえて、形相すさまじく鬼のように趙さんを問い詰めた。
趙さん、案外と正論に弱く、言い返すことが出来ず、三上の首を捕まえて、
「オマエ、キモチワルイヨ」と皆が思っているが口に出さないことをとうとう口走ってしまった。さすがの小さな三上も堪えきれず、その趙さんの胸を突き飛ばした。趙さんテーブルに倒れ込んだと思うと、三上は馬乗りになり趙さんの首を掴むと、趙さん「オーマイゴット」と叫びながら顔を手で覆った。
食堂は4、5人の従業員がいたが、騒然となり、マズイのはそこに偶然(たまたま)、ホテルのマネージャーが居合わせていた。マネージャーすぐに班長・伊藤を呼び、その場は終結したが、ただの趙さんの思い込みから、とうとう最終局面に行きついてしまうという何とも言いようもない事件だった。
蛇足だが、驚いたのは三上、案外喧嘩が強いということだった。
結果、趙さんは馘を言い渡され、三上は配所さながら別の現場に移された。
班長・伊藤と会社側は、マネージャーにお叱りをうけ、今度このようなことがあったら、契約を打ち切り、別の業者に変わってもらうという厳重警告をうけて事件は落ち着いた。
翌日、従業員通用口からホテルに入ろうとすると、紙袋を両手に抱えホテルを出ようとする趙さんにばったり会った。
「宮田サン、ワタシクビネ」と彼は顔に悲しそうな笑みを浮かべて言った。
私に驚きはなかった。
「ニホンジン、オカシイヨ」と今度は苦笑した。
十分、趙さんもオカシイヨと皮肉を言おうとしたが、心に止めた。
「ニホンジンダイジナコトアイマイニシテ、ダイジジャナイコトニコマカイネ」
会社側から、相当お叱りを受けたが、思うところをぶちまけてみたのだろうが相手にされることはなかったのだろう。日本人批判をはじめたかと思うと、
突然「ゼッタイ、アイツヤッタネ、ワタシミタノヨ」
と今度はギョッとするようなことを言って、何の反省もなく、まだ「ゼッタイ」と言い張って大きな身体を揺らして
「ソレジャネ、宮田サン」と言って去っていった。
じっと去っていく趙さんの後ろ姿を眺めながら、「元気でね」と大きな声で呼び掛けた。趙さん振り向いて紙袋を持った手を上げた。「ワタシミタノヨ」という言葉が変に瘤(しこり)として心に残るのであった。そして、この三上、さきほどもどうにも気持ち悪い男だったと言ったが、最後のどんでん返しで、それ以上に凄まじい男だったことは、私もこの時は分からなかったのであった。
その日の朝礼では、前日の事件説明があり、趙さんの馘と三上の現場移動が知らされた。
誰もが少し驚いた素振りを見せたが、一番嫌われていた二人が居なくなり皆(メンバー)は内心ホットしたと同時に喜んでいたのではないだろうか。
喜んでいたのは、班長の伊藤で、前日からこの事件に翻弄され一睡もしてないらしく顔は疲れで浮腫(むく)んでいたが、趙という問題児がいなくなり一番助かったのは彼なのではないだろうか。
ただ趙さんも言っていたが、この伊藤、気持ちは分かるが中国人に対しての対応が冷酷すぎるところがあり、特にその後も中国人とモンゴル人との対し方に大きな隔たりをもうけ、公平さに欠けることは否めなかった。
深夜1時にもなると、さすがにスパ・フィトネスジムのコーナーも人はいなくなり、ポツリポツリとジムを利用する外国のお客様が寝る前にひと汗と現れるぐらいになる。
私たちは二人で、朝5時30分まで、廊下、ロッカールーム、マッサージ室10室、サウナルーム、プール等のバキューム(掃除機がけ)と拭き掃除に専念する。
さすがに超高級ホテル、非の打ちどころがないほどに清潔なのだが、そこは毎日のルーティンの繰り返しが、この清潔さを保っているわけで、私たちも髪毛一本落ちてないか、鏡に指紋がないか、どこかにホテル側が仕掛けを施してないか(前述)等、目を凝らして隅々まで見て廻る。
そんなある日のこと、さてサウナル-ムを清掃しようかなとロッカールームに入ると、何やら人の気配がする。お客様が寝る前にお風呂にくることはよくあることなので、
それでは、後回しにしようとロッカー室を出ようとした瞬間。何やら浴室の方から怒鳴り合うような大声が聞こえてくる。何かあったのかなと恐る恐るサウナルームへ足を向けると、
「おー、叩き殺してやろうか」
「上等じゃないか」
「ほら殴ってみろよ、ほらほら、お前から殴ってみろよ」
「なめるなよ」
ヤクザの喧嘩まがいの怒号が飛び交っているので、これはイカンと思い、スパ担当マネージャーに電話を入れようとしたが、生憎、電話は相棒のモンゴル人のバルトが持っている。しょうがないと思い、すかさず奥へと向かうと、水風呂の前で、裸で若い男と中年の男二人が顔を突き合わせて、今にも一触即発、殴り合いがはじまるかの瞬間だった。
「お客様、どうしたんですか」と私はすぐさま止めに入った。
一瞬、二人同時に私の方に顔を向けると、中年のゴルフ焼けか、黒い精悍な顔つきの男が
「いや、こいつが、汗を流さないで水風呂に入ったんで注意したらいきなり怒りだしてね」と中年男は冷静に言った。
「いや、俺は汗流して入ったのに、こいつが見てなかっただけだよ」と若い男は反論する。
「お前、出た瞬間にそのまま飛び込んだだろ、俺はサウナ室の窓から見てたんだよ」
「嘘言うな、俺はシャワーを浴びてから水風呂に入ったの」と口を尖らせ、中年男に突っ掛かるように言った。
「いや、すぐに飛び込んだよ、お前は」
このまま5分間ぐらいだろうか、どちらかが手を出しそうな危険をはらみながら、終わりのない口論が続くのをじっと私は聞いていた。
確かに、サウナ室からすぐに飛び込んだのを小窓から見ていたのもきっと正しいのだろう。またシャワーを浴びたのも正しいかもしれない。小窓からシャワーのある位置は死角になっており、小窓からではシャワーを浴びたかどうかは確認できないので、若い男が嘘ついているのか、ついていないかだけが問題になるため決着のつけようがない。こういう場合どういう落とし処を見つけたらいいのか、大岡裁きのように三方両損で上手い決着の方法はないものかと思案したが、
「お客様、言い争っていてもしょうがないので、ここは落ち着いてもらって、汗を拭わないで、水風呂に入っていけないというのはお客様両方とも認識していらっしゃるのですから、今後、必ず汗を拭って入ることを徹底してもらうということで、お互いここは引いていただけたらと思うのですが・・・」
私は何だか分かるようで分からない理屈を並べ、何とかこの小競り合いに終止符を打とうと必死に言いくるめた。
しかし、夜中に高層の超高級ホテルの天上階のスパで三人が(二人は〇〇ポまる出しで)、立ちながら口論をしている姿を想像してみてください。また口論の種が、サウナの後に汗を流して水風呂に入ったか入らなかったかという、ほんまに小さなことで20分ほどやり合うと言うのも滑稽を通り過ぎて喜劇というほかにない。
しかし、この世の中、揉め事の原因はすべてこんな小さな出来事から起こるもので、特にこういうホテルの揉め事は、ほんとうに小さなことに起因していることをこのバイト経験で身にしみて感じたのである。二人は私の何だか訳のわからない理屈を聞いて、納得したのか呆れてしまったのか分からないが急に黙ってしまい。きっとお互い疲れたのだろう。
若い男が
「今度はただじゃおかないからな」と捨てゼリフを吐いてその場を後にした。
「ただじゃおかないってどうするんだよ」と中年男はドスの効いた低い声で言った。
中年男は冷静になるとやはり大人である。申し訳ない、とこちらに謝罪して流し場の方へ向かっていった。私は仕事を続けようとサウナ室を出たが、次に何をしたらいいのか、所在投げに、頭を冷やそうとプールサイドをフラフラと歩き廻った。外を眺めると、眠らない東京の夜景がやけに寂しげに輝いていた。歩きながらこの中年男、どこかで見覚えのある顔だなと記憶を辿ると、最近はあまりテレビや映画に顔を出さないが、以前はVシネに登場していた俳優のMではないかと、少し以前よりは老けたが(当然である)、さすがに俳優、まだオーラはあった。ヤクザまがいの言葉も真に迫っていたのは、そこは俳優である。そして〇〇ポも大きかったのは、さすがである(何を感心しているのか)。あの若さでは彼のことは分からないだろうが、もし分かっていたらあのような口論になったかどうか。
そして、私はこの事件のあらましを、担当マネージャーに告げることを控えて、無かったこにして処理をした。もし彼に話せば、何故自分にすぐ連絡をしなかったと小言がかえってきて、私の大岡裁きを褒めてくれるどころか、逆に私の行動に難癖をつけてくるのがオチであったからである。